マスとクラス

 インドの映画業界独自の専門用語に「マス」と「クラス」がある。「マス」とは英語の「mass」、「クラス」は英語の「class」から来ている。これは、観客を大きく2つに分ける分類法で、前者は大衆、後者はインテリ層となる。

 マスとクラスを線引きする明確な基準があるわけではないのだが、漠然とインド人観客はこの2種類に分けられると考えられている。

 マスのイメージは、貧しく、都市部のスラムや農村部に住み、学歴が低く、英語が苦手で、肉体労働をして生計を立てている低所得者層の人々といったところだ。そして、チケット料金の安い場末のシングルスクリーン館で映画を観ている。シングルスクリーン層とも呼ばれる。

 一方、クラスのイメージは、一定の規模以上の都市に住み、大卒以上の学歴を持ち、英語を使いこなし、グローバル企業に勤め、頭脳労働をして高給を稼いでいる上澄み層と定義すればまず間違いがない。彼らは、チケット料金は割高だが、清潔で設備の整ったマルチプレックス(シネコン)で映画を観ている。マルチプレックス層とも呼ばれる。

 人口は圧倒的にマスの方が多い。どのくらいの規模かを算出するのは至難の業だが、映画館で映画を鑑賞する観客と限定すると、インドの全人口約14億人の内、映画館で映画を観られないほど経済的に弱者か、もしくは映画館がないほど僻地に住んでいる人を除いた数に近いと考えていいだろう。近年のインドの最貧困層人口は全体の6-7%、非電化地域居住人口は全体の10%程度、農村人口は全体の65%とされている。それらの数字を参考に概算してみると、マスとして想定できる人口は10億人前後になる可能性がある。

 一方、クラスの人口は1億人に満たないぐらいではないかと予想される。その根拠は、例えばテレビ、コンピューター、自動車、電話の「4種の神器」を全て持っているインド人の数は5,500万人とするデータを目にしたことがある。どんなに多く見積もっても、クラスに分類されるインド人の人口は1割に達しないと思われる。

 映画好きなのはマスとクラスのどちらにも共通するインド人の特徴だが、どんな映画を好むかという趣向については、マスとクラスで異なるとされる。当然、マスの観客は単純明快な娯楽映画を求め、クラスの観客は映画に斬新さ、洗練性、意義を求める。両方の観客を同時に喜ばすのは困難である。よって、一般的にインドの映画プロデューサーおよび監督は、映画を作ろうと思ったとき、マスとクラス、どちらをターゲットにするか選択を迫られる。

 マスとクラスでは人気の俳優も異なる。3カーンを例に取ると、マスに人気があるのはサルマーン・カーンであり、クラスに人気があるのはアーミル・カーンである。よって、自然と、サルマーンの主演作はマス向けで、アーミルの主演作はクラス向けとなる。

 もうひとつ例を挙げると、「Om Shanti Om」(2007年/邦題:恋する輪廻 オーム・シャンティ・オーム)には、「Deewangi Deewangi」という、総勢30人の人気スターが特別出演して勢揃いする豪勢なダンスシーンがあった。以下が、特別出演俳優のリストである。

  • ラーニー・ムカルジー
  • ザイド・カーン
  • ヴィディヤー・バーラン
  • ジーテーンドラ
  • トゥシャール・カプール
  • プリヤンカー・チョープラー
  • シルパー・シェッティー
  • ダルメーンドラ
  • シャバーナー・アーズミー
  • ウルミラー・マートーンドカル
  • カリシュマー・カプール
  • アルバーズ・カーン
  • マラーイカー・アローラー
  • ディノ・モレア
  • アムリター・アローラー
  • ジューヒー・チャーウラー
  • アーフターブ・シヴダーサーニー
  • タブー
  • ゴーヴィンダー
  • ミトゥン・チャクラボルティー
  • カージョル
  • ボビー・デーオール
  • レーカー
  • リテーシュ・デーシュムク
  • サルマーン・カーン
  • サイフ・アリー・カーン
  • サンジャイ・ダット
  • ラーラー・ダッター
  • スニール・シェッティー

 このシーンの撮影に関わったスポットボーイなどの裏方たちは、一度に多数のスターを目の当たりにできて大喜びだった。映画業界のもっとも下っ端である彼らは、観客の分類で言えばマスに属する。意外なことに、彼らに一番人気だったのは、サルマーン・カーンやサンジャイ・ダットではなく、ミトゥン・チャクラボルティーだったとされている。日本人のインド映画ファンの間でミトゥンの知名度はいかほどであろうか。インド映画にある程度詳しい人ならミトゥンを知っているだろうが、それでもそこまで庶民層に人気のある俳優だと理解している人は少ないかもしれない。実は我々が普段から親しんでいるヒーローたちは、大半がクラス向けのスターとなる。それとは別に、マスにはマスのヒーローがいるのである。

 21世紀初めの一時期、特にヒンディー語映画界において、クラス向けに特化した映画作りに舵が切られたこともあったが、過渡期を経て、近年では、マスをかなり意識した映画作りに回帰している印象だ。マスに受けなければ大ヒットになりにくい構造になっているからである。新型コロナウイルス感染拡大によるOTT(配信スルー)プラットフォームの普及により、クラス向け映画はOTT志向が強くなっており、映画館で上映される映画はますますマス向けに傾斜して行くと予想される。