ヒンディー語映画を観ていると、よく「Jai Mata Di(जय माता दी)」というフレーズが出て来る。
ヒンディー語ができる人ほど、その意味の解釈に迷うはずである。なぜなら、「Jai(勝利)」、「Mata(母親)」はいいとしても、最後の「Di」の意味がよく分からなくなるからだ。
ヒンディー語で「Di」と言えば、普通は「与える」という意味の他動詞「देना」の女性単数完了形としか取れない。そうすると、「Jai Mata Di」は、「母親が勝利を与えた」と解釈できなくもない。
だが、ヒンディー語の文法を勉強すると、必ず「能格構文」または「Ne構文」と呼ばれる特殊な文法事項にぶち当たる。ヒンディー語では、他動詞完了形が述語となる際に、意味上の主語が能格後置詞「Ne(ने)」を伴う代わりに目的語が文法上の主語に置き換わる。つまり、他動詞の活用が目的語と一致することになる。「母親が勝利を与えた」という文を正確にヒンディー語に訳すならば、以下のようになる。
माता ने जय दी
Mata Ne Jai Di
必ず意味上の主語(ここでは「Mata」)の後に「Ne」が入るのである。これを適宜倒置すると、以下のようになる。
जय माता ने दी
Jai Mata Ne Di
しかし、掛け声は「Jai Mata Di」である。どう見ても「Ne」が抜けている。これは文法の間違いなのだろうか。
どうしてもデーヴナーグリー文字(ヒンディー語の表記に使われる文字)で考えてしまうと行き詰まってしまうが、思い込みを外すことで道は開ける。
実は「Jai Mata Di」とはパンジャービー語である。パンジャービー語は普通、グルムキー文字で表記されるのだが、なぜか「Jai Mata Di」だけはデーヴナーグリー文字で書かれることが少なくない。パンジャービー語では「Di」は所有を表す後置詞「Da」の女性形である。よって、「Jai Mata Di」とは、「母親の勝利」となる。
これまで「Mata」を「母親」と訳して来たが、より適した訳は「女神」である。また、「~の勝利」という言い方は、日本語でこなれた訳をするとしたら「~万歳!」になるので、「Jai Mata Di」は「女神万歳!」という意味になる。
インドには数多の女神がいるが、「Jai Mata Di」という合い言葉は、ジャンムー地方にあるヴァイシュノーデーヴィー寺院で祀られている女神ヴァイシュノーデーヴィーに対して特に使われる。デリーを中心とする北西インド地域で篤く信仰されている女神である。ジャンムー地方はパンジャーブ地方の隣にある関係で、掛け声にパンジャービー語が使われるのだと思われる。
パンジャービー語の後置詞「Di」は、ヒンディー語映画の題名にも時々登場する。例えば「Veere Di Wedding」(2018年)や「Jai Mummy Di」(2020年)である。ヒンディー語の「Di」と混同しないようにしたい。