ラサ理論

 インド映画は他国の映画と同様に批評できるものなのだろうか。

 インド映画、特にヒンディー語映画では、21世紀の初頭に国際標準的な映画作りへの移行が進行したこともあり、国際的な観客を意識したユニバーサルな映画作りが行われる傾向がある。よって、21世紀のヒンディー語映画の多くは、ある程度、他国の映画と同じ物差しで評価することが可能になっている。

 ただ、どんなにインターナショナルなインド映画でも、根底にはインド映画独特の文法みたいなものがあり、それらを正当に評価するためには、国際的な物差しとは異なる、インド独自の視点での評価が必要になると感じることも少なくない。特に、俗に「マサーラー映画」と呼ばれる、インドに典型的な娯楽映画については、それが必須と感じる。

 しばしばインドの娯楽映画はあたかもどれも同じであるかのごとくいわれることがあるが、当然のことながら全く同じ映画が延々と量産されているはずはなく、その中には、面白いもの、つまらないものがはっきりと分かれて存在する。何が面白く、何がつまらないのか、それを決定する要素があるはずで、それを抽出し、正当に評価するのが、インド映画を批評する者の務めであろう。

 インド映画を評価する際に、有力なヒントとなりえるのが、インド古来から伝わるラサ理論(あるいはラス理論)である。

ラサ理論

 ラサ理論は、伝説的な聖仙バラタによって著されたとされる芸術理論書「ナーティヤシャーストラ」で初めて提唱されたと考えられている。その成立年については諸説あるが、遅くとも紀元後600年頃には成立していたと見るべきであり、早ければ紀元前に成立していたとする説もある。バラタが実在したかどうかは不明だが、「ナーティヤシャーストラ」によって提唱されたラサ理論は、後世の注釈家たちの手によって発展していき、完成した。この理論は、演劇のみならず、舞踊、絵画、彫刻、文学、音楽など、あらゆる文芸分野に多大な影響を与えた。

 「ラサ」には「味」とか「汁」など複数の意味があり、元来は医学や料理に関係する言葉だ。サンスクリット語読みをすれば「ラサ」だし、ヒンディー語読みをすれば「ラス」になる。現代でも、「ガンネー・カ・ラス(サトウキビのジュース)」とか、「ラス・マラーイー(汁状クリームのデザート)」など、料理名の一部によく使われる言葉だ。

 アーユルヴェーダ(インド伝統医学)は6つの「味」を規定している。甘味、酸味、塩味、辛味、苦味、渋味である。料理は、これらの味を生みだす素材を組み合わせて行われ、食べる者の味覚を刺激し、それぞれの味に対応する気分を喚起する。そして、これらの気分が一体となることで「美味」という総合的な満足感を生み出す。

 バラタは当初、演劇にも6つの「味」があるとした。バラタが料理を意識してラサ理論を構築したのは想像に難くない。バラタ自身が後にその数を8つに増やし、後世に9つに増やされて「9つのラサ」、いわゆる「ナヴァラサ」が完成した。「ラサ」という用語が演劇に適用されるとき、その訳語として「情感」という言葉が使われることが多い。演劇を鑑賞して心の中に沸き起こる様々な感情を「情感」という。

 9つのラサ(情感)の内容は、注釈家によって若干異なるのだが、一般的に流布している「ナヴァラサ」は、以下の通りである。

1. 恋情(शृंगारシュリンガーラ
2. 憤激(रौद्रラウドラ
3. 勇武(वीरヴィーラ
4. 憎悪(बीभत्सビーバツァ
5. 滑稽(हास्यハースィヤ
6. 悲愴(करुणカルナ
7. 奇異(अद्भुतアドブタ
8. 驚愕(भयानकバヤーナカ
9. 平安(शांतシャーンタ

 それぞれのラサを、映画のキャッピコピーなどによく使われる英単語で説明すると、以下のようにまとめられるだろう。

  1. 恋情=romance, eroticism
  2. 憤激=fury
  3. 勇武=heroism, action
  4. 憎悪=disgust
  5. 滑稽=comic, laughter
  6. 悲愴=pathos, compassion
  7. 奇異=wonder
  8. 驚愕=terror, horror
  9. 平安=satisfaction, tranquility

 「マサーラー映画」には、これらの要素が一本の映画に全て盛り込まれているとされる。笑いあり、涙あり、アクションあり、ロマンスあり、何でもあり、という訳だ。ちなみに「マサーラー」とは、インド料理で使われるミックススパイス「ガラムマサーラー」のことである。日本の七味唐辛子のような調味料だ。

 だが、料理において必ずしも全ての味を使わなければならないわけではないのと同じように、ラサ理論においても、演劇に9つのラサ全てを盛り込むことが推奨されているわけではない。むしろ、1つの演劇につき、1つか2つのラサでいいとされている。ラサ理論は単にラサには9つあるといっているだけだ。現代のインド娯楽映画では、確かになるべく多くのラサを一本の映画に盛り込もうとするが、それは旺盛なサービス精神から来るものであって、古典的なラサ理論に基づくものではない。ラサ理論では、「ラサ」の数よりもむしろ、効果的に「ラサ」を生み出すことを重視している。

ラサとは何か

 ラサは9つあることは分かった。先に、ラサは「情感」と訳すと述べた。では、ラサは一般的な感情と何が違うのか。「感情」と訳さないのはなぜなのか。なぜわざわざ訳し分けないといけないのか。

 ラサを一般的な感情と区別するのは、両者が本質的に異なると考えられているからである。演劇を鑑賞して心の中に沸き起こる感情、つまり情感は、現実世界の様々な事象に直面することで心の中に沸き起こる感情とは異なるというのが、ラサ理論の核心部分である。

 ラサと一般的な感情の違いを説明するのにもっとも分かりやすいのは悲愴のラサである。たとえば、親しい人が亡くなったとする。それが家族であれ、親友であれ、恋人であれ、現実世界でも映画のストーリーの中でも起こりえることだ。では、自分の親しい人が実際に亡くなったときと、感情移入する映画の主人公の親しい人が亡くなったときとで、心の中に沸き起こる感情に違いはあるだろうか。

 ラサ理論では違いを見出す。

 現実世界で心に沸き起こる感情は、感情そのものに過ぎない。親しい人を亡くしたときに沸き起こる感情は悲しみであり、それは通常、悲しみ以外に変化しようがなく、むしろ苦しみや痛みを伴う。そして我々は人生の中でなるべくそれを避けようとする。だが、創作世界の鑑賞の中で心に沸き起こる悲しい気持ちは、一見すると、現実世界で得られるものと似通っているが、それは最終的に芸術的な満足感に昇華する可能性を持っている点で、全く異なっている。映画の主人公の親しい人が亡くなったとき、我々は悲しい気分になるが、映画がきちんと作られてさえいれば、その悲しみは、鑑賞後に「いい映画を観たなぁ!」と、スッキリとした気持ちの一部に変化するはずである。もし、現実世界の悲しみと創作世界の悲しみが等しいものであったら、我々の内の多くが好んで悲劇を鑑賞する動機を説明できなくなってしまう。

 ラサ理論は、創作世界において鑑賞者の心に沸き起こる感情を「ラサ(=情感)」と呼んで、現実世界の感情と区別している。現実世界の感情は「体験」するものであるのに対し、映画などの物語では、情感は「味わう」ものとされる。現実世界で流す涙と、映画等を観て流す涙は異なるのである。そして、演劇をはじめとしたあらゆる芸術の目的は、鑑賞者に、8つに分類される情感のどれかを味わわせ、それらが複数あるならば、それらを効果的に混ぜ合わせることで、最終的に第9のラサである平安(芸術的な満足感)を感じさせることとされている。インド映画が目指すものも、正にこれである。

全てはラサのために

 鑑賞者に正しくラサを味わわせるために重要なのは、物語や演者と、鑑賞者との間の、適度な距離感である。その距離感を築くためには、物語が創作であるという前提を観客に常に意識させなくてはならない。物語が現実と完全に一体化してしまうと、もしくは観客が演者や役柄と完全に一体化してしまうと、そこからはラサが得られなくなる。架空の時間、架空の土地において、役者の演じる架空の人物が織りなす架空の物語であるからこそ、ラサが生まれる。だから、ドキュメンタリー映画にはラサ理論が適用されないと考えていいだろう。ドキュメンタリー映画で取り上げられるのは現実世界の問題であることが普通で、そこから鑑賞者が得られる感情はラサとはいえない。

 インド娯楽映画は他の国の映画に比べて、フィクション性が強いように感じる。他の国の映画が、ストーリーや映像、演出に迫真性や臨場感を求めるのに対し、インド娯楽映画はどこかフィクションであることを堂々と前面に押し出す傾向にある。言い換えれば、嘘っぽいのである。馬車が崖を飛び越えたり、人が突然姿を消したり、神様に祈ったら都合よくそれが叶ったり、悪役が予定調和的に倒されたり、最後は必ずハッピーエンドだったりと、様々な部分でその嘘っぽさを指摘できるだろう。

 それをもっとも端的に表しているのが、ストーリーの途中に差し込まれるダンスシーンだ。インド映画のダンスシーンには現実と空想が入り交じっているし、そもそも現実世界を生きていて、突然音楽が鳴り出してバックダンサーと共に踊り出す場面など、普通はないだろう。これも、インド映画のフィクション性の賜物だ。インド映画は、現実世界に似て非なるパラレルワールドで展開している、という理解は、ラサ理論を理解し、インド映画を理解する上で、非常に重要である。インド映画は観客をパラレルワールドに連れて行かなければならない。それが、インド映画にしばしば現実逃避性が指摘される所以でもある。インド娯楽映画全体をファンタジー映画の一種と捉えてもいいくらいだ。

 日本の一般の観客は、インド映画の嘘っぽさを、インド映画業界の未熟さと捉えるかもしれない。だが、ラサ理論に基づけば、この嘘っぽさこそが映画には大事なのである。なぜなら、嘘でなければ、せっかくの情感が感情に「劣化」してしまうからである。

 情感を効果的に抽出するためには他にもいくつもの障害があり、それらを乗り越えることが、ラサの効果的な抽出につながる。例えば、映画のストーリーが、鑑賞者が実際に体験した出来事と似ていると、そこから得られる情感は感情に近くなってしまう。夫を亡くした女性が、とある映画において登場人物の女性が夫を亡くすシーンを見たとき、自分の過去の体験をつい思い出してしまうだろう。それを避けるためには、鑑賞者を映画の世界に没入させ、徹底的に現実を忘れさせなければならない。

 鑑賞者を没入させるためには、インド映画が描く世界が現実世界のパラレルワールドであるという前提に立った上で、その世界に信憑性を築き上げなければならない。そのためにラサ理論が重視するのが、鑑賞者の心の同意を得ることである。矛盾するようだが、ここで物語には現実性が必要になる。

 ただ、ここでいう現実性とは、ノンフィクションを意味するのではなく、現実世界の常識やモラルに即している必要があるということである。物質的な現実性ではなく、精神的な現実性とでもいおうか。その世界で繰り広げられる出来事が、現実世界の常識やモラルに反していたり、鑑賞者の期待から外れるものだったりすると、鑑賞者が没入できなくなるとされる。いくらファンタジーとはいえ、正義が負け、悪が栄えるような空想世界であっては、鑑賞者の心から同意が得られず、その中に没入できなくなる。

 鑑賞者の同意を得るためには、世間一般によく周知され、勧善懲悪のストーリーをなぞるのが一番手っ取り早い方法だ。現実世界のモラルや信仰の延長線上に物語を構築し、正義は必ず勝たせなければならない。インド娯楽映画が、インド神話から抜き出したような、使い古されたストーリーの繰り返しであったり、勧善懲悪的かつ説教的であるとされたりするのには、この辺りにも根があると思われる。

 インド映画では、俳優に明確に色分けがなされている。スター俳優、つまり常に主演を張る男優を筆頭に、道化役をする俳優、悪役として有名な俳優、必ず裏切る俳優、必ずズルする俳優など、この人はどの映画でもこういう役を演じる、というお約束な組み合わせが存在する。これも、観客に予め特定の期待を持たせておき、物語の中でそれを実現して見せることで、ラサが生じやすくするという工夫だと捉えられる。ただ、一度不本意に色づけされてしまった俳優がその色を払拭するのに多大な苦労を伴う業界でもあることは、俳優のインタビューなどからもうかがわれることである。

 必ずハッピーエンドで終わるのも、観客が物語を鑑賞する中で抱く「こうあって欲しい」という期待に応えた方がラサが出やすいからである。そうはいっても悲しい結末はインド映画にも存在するし、意外な結末や観客の推測に委ねられたオープンな結末というのもないことはないのだが、やはり西洋的な作りの映画に多い印象である。

 とはいっても、それらは作り手側の問題である。翻って、鑑賞者側からすれば、インド娯楽映画を楽しむコツは、キャラクターやストーリーについてあまり現実的に考えず、そこから得られる情感に意識を集中することにあるといえる。キャラクターやストーリーはあくまで情感の製造機に過ぎない。チョコレートを味わうとき、あなたは毎回チョコレート工場について考えるだろうか。何も考えずチョコレートにかじりつく方がチョコレートをおいしく食べられるだろう。それと同様に、インド娯楽映画を鑑賞するときは、細かいところまで深く考えてはいけない。インド娯楽映画を観る際、よく「脳みそを家に置いて映画館へ行け」といわれるが、その助言はあながち間違いではない。より好意的に表現するならば、「インド映画は心で観るべし」である。

 ただ、180度見方を変えれば、現実世界の感情は何も考えなくても何らかの然るべき事象に直面したときに自然に生じるのに対し、創作世界の情感を味わうためには、ステージ上であれスクリーン上であれ、そこで役者によって演じられるシンボル化・デフォルメ化された言動ややり取りを鑑賞者が知的に受け止めて咀嚼しなければならないので、より知的な活動ともいえる。そういう意味では、インド映画は脳みそをフル回転させて観なければならない。特に歌のシーンのときには、詩を理解しながら映像を観なければならないので、かなりの処理速度が必要である。

インド映画らしさ

 インド映画を楽しむためにはラサ理論の理解が必要だとは常日頃から考えているものの、インドの映画監督はラサ理論を特別意識して映画を作っているわけではない、というのは認めざるをえない。映画監督のインタビューなどでも、そんな小難しいことをいって娯楽映画を作っている人は皆無だ。インドにおいてあまりにラサ理論の伝統が長く、影響力が強すぎるため、インド人が映画を作ると、自然とその要素が入ってくると考えるのが一番真実に近いであろう。それが「インド映画らしさ」の実体と考えていいのではなかろうか。

 情感を中心にした映画作りというのは、明らかに他の国の映画作りとは異なるため、国際的に正当に理解されないことが多い。日本の映画評論家でインド娯楽映画を正確に評価できている人が果たしてどれだけいるだろうか。

 その一方で、若い映画監督によるイマドキのインド映画は、欧米の映画作りによく似て来ており、ラサ理論から離れつつある。そのような映画ならば、国際的な土俵で評価されやすいだろう。

 だが、「インド映画らしさ」を個性や強みと捉えるならば、ラサ理論から脱却した現代インド映画は、逆に国際的なアピール力を失いつつあるのではないか、という懸念も感じる。だから、今でも根強く典型的なインド娯楽映画を作り続けている映画監督が一定数存在することは歓迎すべきだ。だいぶシャレた映画が増えたが、インド全土で大ヒットするような映画は、ラサ理論的な「インドらしさ」を大切にした作りであることが今でも多い。

 古代にバラタ仙によって提唱されたラサ理論は、現代にまで息づいていると考えていいだろう。