Kaanchli: Life in a Slough

3.0
Kaanchli: Life in a Slough
「Kaanchli: Life in a Slough」

 2020年2月7日公開の「Kaanchli: Life in a Slough」は、ラージャスターニー語文学作家ヴィジャイダーン・データー(1926-2013年)が書いた短編小説「Kenchuli(蛇の抜け殻)」を原作とした映画である。データーは「ラージャスターンのシェークスピア」と称される文学者で、シャールク・カーン主演「Paheli」(2005年)も彼の作品「Duvidha」を原作としている。ラージャスターン地方に伝わる民話をベースにした作品で知られる。

 「Kaanchli: Life in a Slough」の監督はデーディピヤー・ジョーシー。TVドラマやドキュメンタリーなどを撮ってきた人物で、過去に2本の長編映画も撮っている。キャストは、サンジャイ・ミシュラー、シカー・マロートラー、ナレーシュパール・スィン・チャウハーンなどである。また、ヴィジャイ・ラーズがナレーションを務めている。

 題名になっている「Kaanchli」とは「Kenchuli」と同義の単語で、脱皮した蛇の抜け殻を意味する。蛇の抜け殻は英語では「slough」といい、副題に使われている。ただ、「slough」という単語には「泥沼」という意味もあり、「Life in a Slough」には、「脱皮する前の皮に覆われた人生」という意味と「泥沼にはまり込んだ人生」という2つの意味が掛けられていると考えていい。

 ラージャスターン州の農村に住むキシュヌー(ナレーシュパール・スィン・チャウハーン)はカジュリー(シカー・マロートラー)という美しい女性と結婚する。没落しながらも虚勢だけは張っている領主タークル(ラリト・パリムー)はカジュリーの美しさを聞きつけ、部下のボージャー(サンジャイ・ミシュラー)を動かし、何とか彼女を我が物にしようとする。

 あるときタークルはボージャーと共にキシュヌーの家を訪れ、カジュリーを見る。タークルはますますカジュリーの美貌に魅了され、キシュヌーが留守の間にカジュリーを捕まえようとする。だが、カジュリーはタークルを強く押し、タークルは地面に倒れてしまう。タークルとボージャーは引き下がる。

 女性に押されて倒れたタークルを見てボージャーは幻滅し、代わって自分がカジュリーを我が物にしようと画策し出す。カジュリーはキシュヌーにタークルとのことを話すが、キシュヌーは天然ボケであり、とにかくタークルとボージャーを敬うように言うだけだった。そこでカジュリーはボージャーを誘い出し、そこに夫を引き合わせて危機を知らせようとする。だが、やはり天然ボケのキシュヌーはボージャーの言い逃れを信じてしまい、カジュリーが狙われていることなど全く思い付かない。何度かそういうことを繰り返しているうちにボージャーにも戦略がばれてしまう。

 とうとう観念したカジュリーは、ある雨の夜、衣服を脱ぎ捨ててボージャーの家を訪れる。だが、ボージャーもカジュリーを手に入れることを諦めており、別の女性との情事にふけっていた。カジュリーはそのまま行方をくらます。

 封建主義が根強く残る農村において、没落しながらも虚勢を張る領主タークルの横暴に耐えながら、状況をよく飲み込めていない夫にも助けてもらえず孤軍奮闘する、美しく聡明な女性の物語である。

 まず、タークルは村の女性たちを次々に手込めにしていた。あたかもそれが領主に与えられた当然の権利であるかのようだった。この部分は明らかに封建主義の批判である。ただし、村の女性たちの中には、それを楽しんでいる者もいるようであった。こちらは女性の強かさを描いているともいえる。

 だが、主人公のカジュリーは夫を愛する貞淑な女性であり、夫以外の男性から触れられるなど耐えられないことであった。タークルや、その手先となって動くボージャーの邪な意図がはっきりと分かった時点でカジュリーは夫キシュヌーにそのことを訴えているが、キシュヌーは間が抜けた人物で、タークルやボージャーへの疑念すら頭に浮かばず、全く頼りにならなかった。カジュリーはボージャーを何度もおびき出して夫とわざと引き合わせ、事態を分かってもらおうとするが、それでもキシュヌーはボージャーに言いくるめられてしまい、ことごとく失敗に終わる。

 物語の転機を引き起こす小道具として登場するのが、題名にもなっている蛇の抜け殻である。どうやらラージャスターン地方では蛇の抜け殻は願い事をかなえてくれる幸運アイテムと考えられているようで、コブラが脱皮して残していった抜け殻を見つけたカジュリーは喜び、家の金庫に大事にしまっていた。だが、蛇の抜け殻を手に入れても、ボージャーによる執拗なつきまといは止まらなかった。蛇の抜け殻も彼女を泥沼から救い出すことはできなかったのである。

 最後に彼女が採った行動はミステリアスなものであった。雨の夜、夫が寝た後、彼女は起き上がって、雨に打たれながら、おもむろに装身具を外しだす。そして衣服までも脱ぎ捨てて真っ裸になり、ボージャーの家に行くのである。ボージャーを罠にはめようとしていたことがばれ、今後、タークルと通じたボージャーから嫌がらせがあるかもしれない。最悪の場合、夫の身に何かがあるかもしれない。そうなる前にカジュリーは自らの身をボージャーに捧げようとしたのである。当然、装身具や衣服を脱ぎ捨てる彼女の行動には、皮を脱ぎ捨てる蛇の姿が重なる。

 ただ、このときまでにはボージャーもカジュリーを手込めにすることを諦めており、別の女性と情事にふけっていた。それを知ったカジュリーは夫の元に帰ることもできなくなり、裸のまま雨の中へ消えていくのである。封建社会の中では女性はどうあがいても生きていけないことを示すエンディングであった。

 映画の中では、カジュリーは、タークルやボージャーを一瞬で魅了してしまうほどの美女とされていた。カジュリー役を演じたのはシカー・マロートラーという女優だが、ほとんど無名の人物だ。しかも美女というほどでもなかった。そのため、物語には説得力が欠けていた。

 演技面では曲者俳優サンジャイ・ミシュラーにどうしても注目がいく。タークルの腰巾着として暗躍しながら、タークルに完全に忠誠を誓っているわけでもなく、途中からカジュリーを自分で手込めにしようと動き出す、せこい人物だ。また、自宅では鳥かごの中にいるインコと会話をするが、そのインコはどうも模型であり、インコの声は自分で出していた。はっきりいって不審人物である。そしてそういう役柄を演じるのが非常にうまい俳優がサンジャイであり、抜群のキャスティングであった。

 言語はヒンディー語とラージャスターニー語のミックスである。タークルとボージャーは基本的にヒンディー語で話し、キシュヌーとカジュリーはラージャスターニー語で話していた。ラージャスターニー語はヒンディー語の一方言であるが、類推で理解するには限界があり、キシュヌーとカジュリーの会話を聞き取るのが難しかった。

 「Kaanchli: Life in a Slough」は、「Paheli」の原作者が書いた短編小説を映画化した作品であり、同じような民話的展開を見せるストーリーになっている。封建社会における女性の孤独を描いている点でも共通している。ラージャスターニー語を多用した地方色の強い作品だ。衝撃のラストはそれぞれに解釈の仕方があるだろう。


https://www.youtube.com/watch?v=-9M-HhAyYEA