
2018年10月4日公開のタミル語映画「’96」は、学生時代の報われない恋愛が、20年後に行われた同窓会で再燃するという大人のロマンス映画である。
監督は新人のCプレーム・クマール。音楽はゴーヴィンド・ヴァサンタ。主演はヴィジャイ・セートゥパティとトリシャー・クリシュナン。他に、アーディティヤ・バースカル、ゴウリー・G・キシャン、デーヴァダルシニー、ニヤティ・カーダンビー、ジャナガラージ、バガヴァティー・ペルマール、スーリヤ・プラカーシュ、アードゥカラム・ムルガダース、ゴウタムラージ、ラージクマール、ヴァルシャー・ボッランマー、カヴィターラヤ・クリシュナンなど。
興行的に大ヒットし、批評家からも絶賛を受けたこの映画は、カンナダ語やテルグ語でリメイクされた。カンナダ語映画「99」(2019年)の方はプリータム・グッビーが監督をしたが、テルグ語映画「Jaanu」(2020年)の方はCプレーム・クマール監督が自ら監督をしている。「Jaanu」を鑑賞してから「’96」を鑑賞した。
2016年、旅行写真家のラーマチャンドラン・クリシュナムールティ、通称ラーム(ヴィジャイ・セートゥパティ)は、故郷タンジャーヴールで通っていた高校に久しぶりに立ち寄り、それがきっかけで高校時代の親友ムラーリー(バガヴァティー・ペルマール)が1996年卒業生の同窓会を企画する。
チェンナイで開催された同窓会にラームは出席する。そこで彼は、高校時代にクラスメイトだったムラーリー、サティーシュ(アードゥカラム・ムルガダース)、スバー(デーヴァダルシニー)などと共に、初恋の相手ジャーナキー・デーヴィー・サラヴァナン、通称ジャーヌ(トリシャー・クリシュナン)と再会する。ジャーヌは結婚し、シンガポール在住で、夫の間には一人娘がいた。高校時代、シャイだったラームはジャーヌに告白できず、1994年に転校した。それ以来、二人は顔を合わせていなかった。22年ぶりにジャーヌに再会したラームは、やはり彼女の前でもじもじしているばかりだった。
同窓会が終わり、ラームはジャーヌをホテルに送る。だが、ジャーヌはすぐにホテルから出て来て、彼と一緒に夜のドライブに出掛ける。ジャーヌは、ラームがまだ独身であること、どうやら童貞であることなどを知って気にしており、その理由は自分にあると判断した。ジャーヌもまだラームのことが好きだった。
話している内に、ジャーヌが女子大学に通っていた頃の出来事が浮上する。実はラームは意を決してチェンナイからタンジャーヴールまでジャーヌに会いに来たことがあった。女子大学の中に入れなかったラームは、通りがかりの女子大生ヴァサンティーに伝言を頼んだが、ミスによりジャーヌに来訪が伝わらなかった。ラームは失意のままチェンナイに戻った。
ラームとジャーヌは喫茶店に入るが、そこで彼は教え子のプラバー(ヴァルシャー・ボッランマー)に出くわしてしまう。プラバーはジャーヌをラームの妻だと勘違いし、馴れ初めを聞く。ジャーヌは、高校時代からの仲であることを明かし、プロポーズのときの様子を、ラームが大学まで来てくれた日に設定して話をする。
急に雨が降り出したため、ラームはジャーヌを自宅に連れて行く。シャワーを浴びて着替えたジャーヌは、ラームのベッドで一眠りし、出発する。ラームはジャーヌを空港まで送り、最後のひとときまで一緒にいる。家に帰ると、ジャーヌの衣服が乾かしたままだったことに気付く。彼はそっとトランクケースの中にそれをしまう。
テルグ語映画「Jaanu」を観たときには冗長な映画だと感じた。確かにその原作となる「’96」も非常にスローペースな映画だ。だが、主演ヴィジャイ・セートゥパティの演技力と存在感が成せる業なのか、「Jaanu」よりも感情の盛り上がりが一段上であり、寂しくも上品なロマンス映画にまとまっていた。
基本的には、愛し合いながらも結ばれなかったカップルの物語である。しかもヴィジャイの演じるラームがシャイすぎる男性であり、何かともどかしい。高校時代の恋愛はいいだろう。告白したくてもできなかった思い出は、多くの人の胸にそっとしまわれているものだ。だが、大人になって出会ったときに、何も成長が見られなかった。20年以上愛し続け、もはや崇拝の対象ともいえる女性が目の前にいるのに、なかなかはっきりと気持ちを打ち明けることができない。もちろん、彼女は既に結婚し子供も持っており、この期に及んで告白するのはモラルに反する。だが、モラルを守ってばかりでは物語は成立しない。観客は、蟻の一穴を期待して、固唾を呑んでスクリーンを見守ることになる。だが、その蟻の一穴すらもなかなか開かないのである。
下手をすると、そのもどかしさが不快感に変わってしまうものだが、ヴィジャイが極度にシャイなラーム役を絶妙なバランスでいじらしく演じ、ついつい応援したくなるような雰囲気を上手に醸し出していた。トリシャー・クリシュナンも、ラームから本心を引き出そうとするジャーヌを、少し小悪魔的にうまく演じており、魅力的だった。M気質の男性とS気質の女性から共感を呼びそうな設定である。
映画は、これほどまで愛し合い、ソウルメイトともいえるラームとジャーヌを、最後の最後まで結びつけない。残酷なまでの高潔を保っている。だが、映画は二人に、想像の世界、「if」の世界を与える。「’96」の中でも白眉のシーンは、ラームとジャーヌが喫茶店でプラバーたちと出会い、ジャーヌがラームとの「馴れ初め」話をする場面である。ラームから写真を学んでいたプラバーたちは、根暗な性格のラームに妻がいたことに驚き、どうやって出会ったのか、どちらが何とプロポーズしたのかなど、恋バナ大好きな若い女性らしい質問を次々にぶつける。そのときまでに、ジャーヌはラームが大学まで来てくれていたことを知っていた。現実では、ちょっとした手違いから二人は出会えなかった。しかし、ジャーヌは、「もし」を考える。もし、あのとき、ラームと出会えていたら・・・。そんな想像の世界をジャーヌはプラバーたちに話す。それは、ラームも思い描いていた理想の世界であった。
想像の世界以外に、ラームにとって慰みの世界となっていたのが、追憶の世界である。彼は、ジャーヌとの思い出の品を大事に保管していた。おそらく、時々それを見ては、思い出の世界に浸っていたのだろう。今回、ジャーヌと再会したことで、思い出の品が増えた。それは、彼女が家に忘れていった衣服であった。誰かを愛した人が、必ずしもその人と結ばれるわけではない。だが、結ばれなかった人にも、誰にも迷惑を掛けず、愛を育んでいけるスペースが残されている。そんな、夢破れた人に優しい世界を「’96」は提供しようとしている。
ただ、蛇足だと感じたのは、ラームが転校後もジャーヌの動向を探っていたという部分である。ジャーヌにとってラームは恋愛の相手なので、ストーカーだとは感じないのかもしれないが、普通ならばストーカーである。彼はジャーヌの結婚式にまで忍び込んでいたのだ。それで何もしなかった。インド映画では、新郎新婦の恋人が結婚式をぶち壊しに乱入するのが定番だ。ラームはジャーヌを愛していたが、そういう大それたことはできなかったし、しなかった。インド映画のヒーロー失格である。
タミル語はほとんど理解しないので、要所要所に差し挟まれた挿入歌の歌詞を底まで味わい尽くすことができない。だが、日本語字幕で歌詞の残り香を味わっただけでも、その質の高さが感じ取れた。音楽の良さも「’96」の大ヒットに大きく貢献したことは疑いない。
「’96」は、思い出を主題にシンミリとした映画を撮ることに長けたCプレーム・クマールのデビュー作である。既にこの処女作から紛うことなき傑作であり、他言語でもリメイクが成されているほどだ。主演ヴィジャイ・セートゥパティとトリシャー・クリシュナンの名演も映画の成功に寄与しているし、音楽の良さも無視できない。名作である。