
2017年3月8日、国際女性デーにYouTubeで配信開始された「Naked」は、女性の安全問題、特にオンライン上での安全を取り上げた14分ほどの短編映画である。
監督はラーケーシュ・クマール。主にTVドラマを撮って来た人物である。主演はカルキ・ケクランとリターバリー・チャクラバルティー。カルキは「Zindagi Na Milegi Dobara」(2011年/邦題:人生は二度とない)、「Yeh Jawaani Hai Deewani」(2013年/邦題:若さは向こう見ず)、「Margarita with a Straw」(2015年/邦題:マルガリータで乾杯を!)などに出演していた、インド生まれのフランス人女優である。それに対しリターバリーはベンガル語映画でキャリアを積んできたまだ若い女優だ。物語は主にこの二人の会話だけで進行する。
カルキが演じるのはサンディーという女優である。サンディーは短編映画の撮影でベッドシーンを演じるが、その映像がネットに流出し拡散した。リターバリーが演じるのは駆け出しのジャーナリスト、リヤー。サンディーの大ファンで、彼女にインタビューできるのを楽しみにしていたが、たまたまその直前にこの流出動画事件があり、上司の命令でこの件について質問せざるをえなくなってしまった。サンディーの部屋でインタビューするリヤーは不本意ながら「セックスビデオ」について次々と下らない質問をしていく。だが、途中で彼女はそれを放棄し、サンディーともっと本心をさらけ出して語り出す。
サンディーとリヤーが主に語り合うのは、レイプの責任は女性にあるのかという問題である。当然、二人ともそれは否定する。セクシーな服を着たり映画でベッドシーンを演じるのは各個に与えられた表現の自由である。また、幼い子供、ブルカーを着た女性、そして高齢の女性までレイプの対象になっているインドにおいて、女性の服装や行動がレイプと相関関係にあるとは思えない。やはりレイプは、幼少時から女性に対する優位性を刷り込まれて育ってきた男性の責任であるというのが結論であった。
ただ、映画の主張はそれだけにとどまらない。SNS上で女性アカウントに対して差別的なコメントをしてくる匿名のユーザーが糾弾されており、女性たちには、そのようなコメントを無視するのではなく、きちんと通報することの重要性が訴えられていた。
この映画が配信された2017年といえば、まだ世界でもインドでもMeToo運動が始まっていなかった頃である。デリー集団強姦事件の影響も考えられるが、「Naked」の問題意識はレイプに限定されておらず、もっと深いところにあるインド社会の闇をえぐり出そうとしていたといえる。
題名の「Naked」にはいくつもの意味が込められていた。まずは物語の発端になっているサンディーの「セックスビデオ」だ。彼女は映画の撮影で裸になったのだが、それが切り出され、「セックスビデオ」としてSNS上に流出し、好き勝手なコメントを付けられていた。だが、サンディーの度胸は据わっており、彼女は自分を表現することに何の疑問も感じていなかった。何も隠そうとしない勇気もこの「Naked」に込められていたといえる。また、サンディーをインタビューしたリヤーも、当初は上司から命令された質問票に沿って質問をしていたが、途中でそれを投げだし、正直に状況を説明し出す。リヤーにとってはこの時点で「Naked」になれたといえる。よって、基本的にこの映画の中で「Naked」という言葉はポジティブに使われていたと感じた。
とはいえ、もうひとつの「Naked」も感じた。この映画において特に批判の的になっていたのが、コンピューターの裏に隠れて匿名で他人を中傷する人々である。彼らに対して堂々と表に出て来るように呼びかけるメッセージもあり、この意味では、悪質な匿名ユーザーを「Naked」にするという読み方もできる。
カルキ・ケクランはさすがに貫禄のある演技をしていたし、リターバリー・チャクラバルティーも自然かつチャーミングな演技をしていて、カルキに見劣りしていなかった。
「Naked」は、国際女性デーに合わせて配信された、女性問題について考える短い映画である。2人の女優の会話によってほとんどの場面が進んでいくが、インド社会の問題を鋭くえぐっており、考えさせる映画になっている。