Fandry (Marathi)

4.0
Fandry
「Fandry」

 2013年10月17日にムンバイー国際映画祭でプレミア上映され、2014年2月14日にインドで一般公開された「Fandry(豚)」は、マハーラーシュトラ州の田舎町を舞台にし、カースト制度や不可触民制度を題材にしたマラーティー語の作品である。

 監督は新人のナーグラージ・マンジュレー。キャストは、ソームナート・アウガデー、キショール・カダム、チャーヤー・カダム、スーラジ・パワール、ブーシャン・ポーパトラーオ・マンジュレー、サークシー・ヴャヴハーレー、アイシュワリヤー・シンデー、ラージェーシュワリー・カラート、ソヘール・シェーク、ナーグラージ・ポーパトラーオ・マンジュレーなどである。

 マハーラーシュトラ州の村に残るカースト制度がかなり赤裸々に描写されているため、登場人物がどのカーストに属するのかを予め確認しておくことは重要だ。

 まず、「Fandry」の主人公ジャビヤーはマーネー姓であり、そこから分かるのは、彼の家族がカイカーディーであるということだ。カイカーディーは地域によってその他の後進階級(OBC)であったり指定カースト(SC)であったりするが、社会の下層にいることには変わりがない。「Fandry」の家族は村の豚退治を任されていた。もちろん、卑しい仕事である。

 一方、ジャビヤーが片思いをするシャールーはパーティール姓であり、これは地主階級のカーストとなる。いわゆるクシャトリヤの一種だ。ジャビヤーとシャールーの間には高いカーストの壁があり、この恋愛は通常ならば成就しない運命にある。

 ジャビヤー(ソームナート・アウガデー)はマハーラーシュトラ州のアコールネール村郊外に住む7年生の少年だった。ジャビヤーの家族は村人たちから差別を受けるカイカーディーに属しており、村に生息して人々に迷惑を掛ける豚の捕獲など、卑しい仕事をさせられていた。父親のカチュルー(キショール・カダム)は目下、ジャビヤーの姉にあたるスルキー(アイシュワリヤー・シンデー)の結婚のことで頭が一杯だった。縁談はまとまったが、相手からは2万ルピーの持参金を要求され、何とか金を稼がなければならなかった。

 ジャビヤーは、同じ学級で学ぶ上位カーストのシャールーに片思いをしていた。黒雀を捕まえればカーストの壁を越えてシャールーと結婚できると信じたジャビヤーは、相棒のピリヤー(スーラジ・パワール)と共に黒雀を探し回っていた。だが、黒雀は警戒心が強く、なかなか捕まえられなかった。

 村でお祭りがあり、神輿の巡業があったが、豚が突進してきて神輿が地面に落ちるという不吉な出来事があった。パーティール(ブーシャン・ポーパトラーオ・マンジュレー)はカチュルーに豚退治を命令する。スルキーの結婚式が迫っていたが、多額の報酬をもらったこともあり、カチュルーと家族は豚退治に出る。ジャビヤーも駆り出された。

 豚の捕獲は学校の近くで行われた。ジャビヤーはシャールーに見られるのが嫌で隠れてばかりいたが、父親から怒られ、シャールーの前で豚の捕獲をする羽目になる。ジャビヤーにとっては屈辱的な出来事だった。豚の捕獲には成功するが、パーティールにからかわれて逆上し、彼に石を投げつける。

 1970年代、ヒンディー語映画界を中心に、メインストリーム娯楽映画とは対極に位置する社会派映画や芸術映画の一群が一世を風靡したことがあった。これらはインド映画史では一般に「パラレルシネマ」と呼ばれている。マニ・カウル監督の「Uski Roti」(1971年)やシャーム・ベーネーガル監督の「Ankur」(1974年)などが代表である。パラレルシネマでは、従来の娯楽映画では題材にされにくかったカースト制度にも一石を投じる努力が払われた。そこには、今まで虐げられてきた下位カーストや不可触民たちの反乱が示唆された。

 「Fandry」は、1970年代のパラレルシネマを思わせる内容の映画だ。主人公の少年ジャビヤーは低カーストであり、村人たちから差別を受けてきた。そして最後には上位カーストに対して反乱を起こす。ただし、彼が暴発した原因は社会への不満などではなく、ごく個人的な感情によるものだ。ジャビヤーは上位カーストに属する同級生の女の子シャールーに片思いしていたが、彼女の前で豚の捕獲という卑しい仕事をさせられたために尊厳を傷付けられ、彼をからかってきた上位カーストのパーティールに対して暴力を振るったのである。おそらく、ジャビヤーはパーティールを殺してしまった。そこで映画が終わるため、その後に何が起こったのかは想像するしかないが、通常ならば彼の家族は酷い目に遭っているはずである。

 カーストという要素がなければ、片思いする少年のいじらしい恋心を描いた青春映画にもなっただろう。だが、保守的な村において、ジャビヤーとシャールーの恋愛が成就する見込みは皆無であった。結婚はおろか、ジャビヤーがシャールーに話しかけただけでも大騒ぎになり、ジャビヤーはリンチを受けることになっていただろう。それでもジャビヤーは希望を捨てなかった。

 絶望的なカーストの差があったにもかかわらずジャビヤーが希望を持ち続けた理由は、黒雀の存在があったからである。映画中では明示されていなかったが、おそらくジャビヤーが敬愛する飲んだくれのチャーナキャーから聞いた迷信を彼は信じていたのだと思う。黒雀を捕まえ、燃やして灰にし、それをシャールーに掛ければ、シャールーとのカーストの差がなくなり、彼女を自分のものにできるとでも考えていたのだと思われる。ジャビヤーは村の外を歩き回って黒雀を探す。だが、黒雀は警戒心が強く、なかなか捕まらない。

 現実には、ジャビヤーは地を這い回る豚を探し捕まえる義務を負っていた。豚はインドでもっとも忌み嫌われている動物であり、触れることすら禁忌である。これは、彼のカーストの低さを象徴している。一方、黒雀は上位カーストを象徴しているといえる。それを捕まえ焼くということは、上位カーストに対する反乱を示唆していたとも取れる。

 ナーグラージ・マンジュレー監督のストーリーテーリング法は独特だ。時々、一見脈絡のない断片的な映像が差し挟まれる。多くは説明されず、映画全体に散らばったセリフをつなぎ合わせてストーリーの細かい部分を想像するしかない。だが、それがうまくできれば、村人たちの差別意識やジャビヤーの願望などが浮かび上がるように工夫されている。

 「Fandry」は、インドの保守的な村に残るカースト制度と、抑圧されるコミュニティーに蓄積された鬱憤、そしてその結果としての反乱の兆しなどが淡々とした映像によって詰め込まれた作品である。人物の心情と社会の有様が絶妙に組み合わされて描出されており、マラーティー語映画の傑作に数えられている。必見の映画である。