2014年の夏は日本でインド映画の劇場一般公開が相次いでいるのだが、その中でも自分にとって完全に未知の世界だったのが、テルグ語映画2本であった。インドに住んでいた頃、テルグ語映画はほとんどノータッチであった。ちょうど数日間東京に滞在していることもあり、まずはその内の一本、「あなたがいてこそ」をシネマート六本木で鑑賞した。テルグ語は全くできないが、日本語字幕があったため、何とか内容の理解はできた。よって、多少のことは書いても差し支えないだろう。
「あなたがいてこそ」の原題は「Maryada Ramanna」。語の意味が語源のサンスクリット語通りだとしたら、題の意味は「尊厳あるラームー兄貴」辺りになるだろう。本国では2010年7月23日に公開されている。監督は日本でも公開された「Makkhi」(2012年/テルグ語版原題:Eega)のSSラージャマウリ。つまり「Maryada Ramanna」は「Makkhi」よりも前の作品である。音楽監督はヒンディー語映画界でいうところのMMカリーム。テルグ語映画界ではMMキーラヴァーニの名前で活躍している。主演はスニール、サローニー、ナーギニードゥなど。
敵対する一族の邸宅に何も知らずに迷い込んでしまった主人公の受難を描いたこの映画は、ヒンディー語映画「Son of Sardaar」(2012年)の元ネタになっているが、さらに元ネタがあるようで、Wikipedia情報によるとハリウッドの古典的喜劇俳優・監督バスター・キートンの「Our Hospitality」(1923年)をリメイクした作品だという。すごいところから発掘して来たものだ。
アシュヴィニー・ディール監督、アジャイ・デーヴガン主演の「Son of Sardaar」の方を先に鑑賞しているので、どうしてもそれとの比較になってしまうが、「Maryada Ramanna」を鑑賞した第一の感想は、「Son of Sardaar」で弱かった部分がこの「Maryada Ramanna」では解決されていたということだった。もっと適切に表現すれば、「Maryada Ramanna」でまとまっていたストーリーが「Son of Sardaar」では余計な手を加えたために混乱してしまっていた。原作を見て初めて分かったが、「Son of Sardaar」は興行的には成功したものの、リメイクとしては失敗だった。
「Son of Sardaar」は2013年のインディアン・フィルム・フェスティバル・ジャパン(IFFJ)において「ターバン魂」の邦題で公開されており、実は僕が字幕の監修をしたので、かなりじっくり見込んだ作品のひとつである。最初にインドの映画館で観たときには評価しなかったのだが、字幕監修に当たってひとつひとつの台詞や歌詞を吟味したところ、一定の評価ができる作品だと考えるようになった。だが、やはり弱いところがあるのは否めなかった。
「Son of Sardaar」で最も弱いと感じたのは、主人公ジャッスィー(アジャイ・デーヴガン)とスクミート(ソーナークシー・スィナー)の恋愛がうまく描写できていなかったことである。特にジャッスィーがいつスクミートを好きになったのか、よく分からなかった。もし一目惚れならそういう描写の仕方ができたし、スクミートの気持ちが分かってから初めて恋愛対象として見ることができるようになったのなら、そういう展開の仕方があった。だが、どっち付かずに終わってしまっていた。
普通に見れば、ジャッスィーがビッルーの邸宅に留まろうとしたのはスクミートとなるべく長く一緒にいたかったからではなく、邸宅の外に出たら殺されることが分かったからである。だが、スクミートはそれを、ジャッスィーが自分のことが好きだからだと誤解し、勝手に恋心を募らせて行く。本来ならばどこかで気持ちのすれ違いが表面化するはずだが、いつの間にかジャッスィーもスクミートを愛していることになっており、そのような問題はほとんど発生しなかった。
その一方、「Maryada Ramanna」では、主人公のラームー(スニール)とヒロインのアパルナー(サローニー)のすれ違いがはっきりと描かれていた。アパルナーは最初からラーム―に秋波を送っていたが、ラームーがアパルナーの気持ちに初めて気付くのは最後の最後、橋のシーンである。それまでラームーは何とかラーミニードゥ(ナーギニードゥ)の邸宅から脱出することだけを考えており、アパルナーと幼馴染みシュリーカントとの結婚を急がせたのも、脱出のためのチャンスをうかがうため時間が欲しかったからである。ラームーの動機や行動は徹頭徹尾、非常に明確であった。
また、「Son of Sardaar」では中盤で舞台が一時的に邸宅の外にも移り、チェイスシーンなどが入って話がゴチャゴチャするのだが、「Maryada Ramanna」では基本的に邸宅内のみで話を進めており、より閉塞感が出ていた。それがあったからこそ、シュリーカントとアパルナーの結婚式が行われている間、邸宅に残ったラーム―が初めて(厳密にいえば2回目だが)邸宅の敷居をまたぎ外に足を踏み出すシーンでは、すさまじいスリルがあった。とても賢いストーリー運びだったと思う。
しゃべる自転車という独特のキャラも、安っぽ過ぎたためか「Son of Sardaar」ではカットされていたが、「Maryada Ramanna」ではちゃんとオチにもつながっていて、なくてはならない存在となっていた。当然、南インド映画のダンスシーンはヒンディー語映画よりも気合が入っている。インド映画の独自の評価基準である、ストーリーと歌詞の親和性からいっても、高次元の完成度であった。序盤の列車のシーンは「Son of Sardaar」に比べて冗長に感じたが、その後はずっと邸宅内が舞台になってしまうし、アパルナーの恋愛感情醸成の説明にもなっていたので、映画の構成上、完全に不要とはいえないだろう。
ただ、「Son of Sardaar」で圧倒的に優れていたのは、ラーハト・ファテー・アリー・カーンの歌う「Bichdann」の存在である。ジャッスィーが結婚式に向かうスクミートを見送るシーンで流れるパンジャービー語的な別れの歌だ。この歌の歌詞の素晴らしさは、この歌を映画で使いたいがために「Son of Sardaar」全体のストーリーができたと表現してしまってもいいほどである。「君は別れると言う、君と別れたら僕は生きていけない」というサビのこの曲には何重もの意味が込められている。ストーリーの都合上、「Maryada Ramanna」ではそのようなシーンはなく、そのような心情を歌った曲もなかった。「Son of Sardaar」にオリジナルよりも勝っている部分があるとしたら、この一点に尽きる。
とはいえ、「Maryada Ramanna」でテルグ語映画の実力を充分に感じ取ることができた。もちろん、ヒンディー語映画でリメイクされている南インド映画は基本的に優れた作品ばかりであって、それ以外の作品には駄作も多いのだろうが、全てがうまく噛み合ったときの底力は計り知れない。