
インドの古典の中でも「カーマスートラ」は「性愛の奥義書」として必要以上に有名になってしまった本だ。2-3世紀頃にヴァーツャーヤナによってサンスクリット語で著されたこの書物は、男女の性愛のみならずいかに幸福に生きるかが追求されている。そもそも、ヒンドゥー教徒にとって人生の4つの目的はダルマ(宗教)、アルタ(経済)、カーマ(欲望)、そしてモークシャ(解脱)とされており、「カーマスートラ」はその内のひとつ「カーマ」を取り上げているだけである。マディヤ・プラデーシュ州カジュラーホーは男女交合像が壁面を埋め尽くした寺院で知られる。よく、寺院の外壁になぜこのようなエロティックな彫刻が彫られているのか不思議がられるが、これもヒンドゥー教において「カーマ」が幸福な人生を生きる上で重視されていることを考えればそれほど奇異でもない。
「カーマスートラ」を題材にした映画はいくつかあるのだが、その中でもっとも有名で、かつもっとも完成度の高い作品が、ミーラー・ナーイル監督の「Kama Sutra: A Tale of Love」である。1996年9月11日にトロント国際映画祭でプレミア上映され、日本では「カーマ・スートラ:愛の教科書」という邦題と共に1997年4月19日に公開された。ただ、性描写が激しく、ヘアヌードもあるため、インドではそのままでは上映できなかった。ナーイル監督はこの映画をインドで上映するために訴訟を起こし、その結果、合計3分間のカットを受け入れることで検閲を通ることとなり、そのカットバージョンが1998年2月28日に公開された。英語版とヒンディー語版が公開されたと伝えられている。
キャストは、インディラー・ヴァルマー、サリター・チャウダリー、ナヴィーン・アンドリューズ、ラモン・ティーカーラーム、レーカーなどである。ほとんどがインド以外に国籍を持つ俳優たちだが、唯一レーカーだけはインドの大女優である。また、驚くべきことに「Zindagi Na Milegi Dobara」(2011年/邦題:人生は二度とない)などのゾーヤー・アクタル監督がカメオ出演している。
「カーマスートラ」が題名になっているものの、部分的に原作になっている作品は別にある。それは、ウルドゥー語文学者ワージダー・タバッスムの短編小説「Utran(お下がり)」である。映画の序盤部分が「Utran」そのままの展開になっている。
2025年2月24日に、日本版のDVDでこの映画を鑑賞し、レビューを書いている。
16世紀のインド。ターラー(サリター・チャウダリー)は王国の姫で、マーヤー(インディラー・ヴァルマー)は彼女に仕える侍女だった。二人は幼い頃から一緒に遊び、仲良しだった。マーヤーは踊りの上手なタワーイフ(芸妓)の娘で、母親亡き後にターラーの乳母に預けられていた。マーヤーは、常にターラーのお下がりを与えられることに不満を抱いていた。
成長したターラーは隣国のラージ・スィン王子(ナヴィーン・アンドリューズ)と結婚することになる。だが、ラージ王子の前でターラーから侮辱を受けたマーヤーは、ラージ王子を誘惑し、彼と寝る。そして嫁ぎ先に去って行くターラーに、彼女の夫は自分のお下がりだと伝える。
ラージ王子はすっかりマーヤーの虜になっていた。ターラーはラージ王子との結婚生活をうまく始められず苦悶する。一方、マーヤーはターラーの婚礼前にラージ王子と寝たことがばれ、王宮を追放される。マーヤーは彫刻師のジャイ・クマール(ラモン・ティーカーラーム)と出会い、彼に連れられて、「カーマスートラ」を教えるラサー・デーヴィー(レーカー)の庵を訪れる。彼女はラサーの庇護に下に暮らすことになった。
マーヤーはジャイに恋をする。だが、ずっと一人で暮らしてきたジャイは彼女の思いを素直に受け止められなかった。落胆したマーヤーはラサーから性愛の術を学び、ラージ王子の妾として召し抱えられる。ターラーはマーヤーが宮廷にやって来たことに怒るがどうすることもできなかった。
ラージ王子は、寝室の天井にマーヤーの彫刻を彫らせるためにジャイを王宮に呼ぶ。再会したジャイとマーヤーは人目を忍んで情事を行う。だが、ある日それがラージ王子にばれてしまう。ジャイは捕らえられ、死刑が宣告される。マーヤーはジャイの命乞いをするが聞き入れてもらえなかった。ジャイは象に踏まれて処刑され、マーヤーはそのまま姿をくらます。また、ターラーの兄ヴィクラムは西方のシャーと手を結んでラージ王子の国を攻める。
中世インドを舞台にしたお伽話のような物語である。ただ、そこで描かれる人間関係はドロドロしている。ターラーとマーヤーは同年齢ながら主従関係にある女性同士だった。共に育ってきた幼馴染みであったが、ターラーは姫、マーヤーは侍女ということで、身分の差があった。仲良く遊んでいる中でも、時折ターラーはマーヤーにその身分差を思い出させる発言をしていた。それを象徴していたのがお下がりの衣服であった。マーヤーはいつもターラーのお下がりを着ており、それが大きな不満だった。成長したマーヤーは、そんな積もり積もった鬱憤を晴らすため、ターラーの結婚式で彼女の結婚相手ラージ王子を誘惑し、彼と寝る。これでラージ王子はマーヤーのお下がりになった。それを知ったターラーは心乱れ、ラージ王子との結婚生活をうまく始められなくなってしまう。
また、マーヤーには、ターラーとの身分差を一発逆転する奥の手もあった。それはターラーの兄ヴィクラムと結婚することだった。ヴィクラムもマーヤーの幼馴染みであり、子供の頃からマーヤーに惚れ込んでいたのである。ただ、ヴィクラムは不具者であり、知能も高そうには見えなかった。また、ヴィクラムでさえマーヤーの目にはターラーのお下がりのように映っていた。ヴィクラムがマーヤーに求婚する場面もあるのだが、マーヤーはそれを拒絶する。マーヤーがラージ王子と寝たところを盗み見していたヴィクラムはそれを言い触らし、マーヤー追放の原因を作ってしまう。
追放されたマーヤーは、ジャイという彫刻師と出会い、恋に落ちる。だが、ジャイも彼女の気持ちを素直に受け止められず、マーヤーは恋に身もだえした結果、タワーイフになる道を選んでしまう。マーヤーを探していたラージ王子は彼女を妾として召し抱える。
「Kama Sutra: A Tale of Love」の主な登場人物はこの5人となる。そして、5人とも一方通行の恋愛をしている。マーヤーはジャイを求めるがラージ王子の妾となり、ターラーは夫であるラージ王子の愛に飢え、ラージ王子はマーヤーを求めるが叶わず、ジャイはマーヤーの求愛をはねのけて後悔し、彼女と再会した後はラージ王子の目を盗んで彼女と密会するが、ばれて処刑されてしまう。それぞれの愛を成就できるチャンスはあったのだが、それを活かすことはできず、5人とも愛に苦しむ結果となる。
「カーマスートラ」を題名として掲げながらも、また、16世紀のインドを舞台にしていながらも、ストーリーの軸になっているのはこの行き違う人間関係である。この映画を観ると「カーマスートラ」で描写されている64の体位がよく分かったりするわけではない。ラサーが生徒たちに「カーマスートラ」の奥義を教えるシーンや、マーヤーとラージ王子、マーヤーとジャイが「カーマスートラ」の教義を意識した体位を取ってセックスしているシーンはあるが、別に「カーマスートラ」でなくても成り立った話である。実際、ミーラー・ナーイル監督はこの映画をインドで撮影する際、「カーマスートラ」という題名は使っていなかったという。どちらかといえば「カーマスートラ」を出すことで話題性を出そうとしたのではないかと感じられる。
それでも、ラージャスターン州などの王宮を使って撮影が行われ、美術や衣装にも手が掛けられていて、中世インドの雰囲気がスクリーン上によく再現されている。ジャイを失ったマーヤーが放浪の旅に出るかのような結末の描き方も非常に哲学的で良かった。とかく性描写が注目されるが、それを差し引いても素晴らしい作品であることには変わりがない。もっと性描写を大人しめにしても映画は高く評価されたのではないかと感じる。
ちなみに、映画の撮影はラージャスターン州ジャイプルのアーメール城、マディヤ・プラデーシュ州チャッタルプルのラージガル城とカジュラーホーなどで撮影されている。
「Kama Sutra: A Tale of Love」は、ミーラー・ナーイル監督が中世インドを舞台にして、性愛を中心に王宮の人間ドラマを描いた作品である。「カーマスートラ」が前面に押し出されているが、軸になるのは人間関係だ。性描写や露出はインド映画レベルを超えており、カットなしにはインドで公開できなかった。それでも、とても美しい映画であり、一見の価値はある。