
1971年9月1日にヴェネツィア国際映画祭でプレミア上映された米印合作映画「Siddhartha」は、「車輪の下」(1906年)で有名なドイツ人作家ヘルマン・ヘッセの長編小説「シッダールタ」(1922年)を原作にした作品である。仏教の創始者ガウタマ・スィッダールタと同時代に生きた架空の人物スィッダールタが悟りを求めて生きる姿を描いている。
1960年代、ヒッピー・ブームの影響でヘッセの「シッダールタ」が人気になり、映画化の企画が持ち上がったようだ。だが、製作にこぎ着けるまでには紆余曲折があり、監督やキャストとしてさまざまな名前が挙がっては消えた。当初はピーター・フォンダ、ジョン・ドリュー・バリモア、オーソン・ウェルズなど米国の俳優を起用しようとしていたようである。なんとチベットからインドに亡命したダライ・ラマを映画中に登場するブッダ役にキャスティングする計画もあったという。監督も、「Pather Panchali」(1955年/邦題:大地のうた)で知られるサティヤジト・ラーイ(サタジット・レイ)に依頼が行っていたという。その後、インド人俳優の中からアミターブ・バッチャンやレーカーなどが候補に挙がったが、最終的にシャシ・カプールとシミー・ガレーワールが主演となった。監督も、企画を立ち上げたコンラッド・ルークスが自らメガホンを取ることになった。シャシとシミーの他には、ローメーシュ・シャルマー、ピンチュー・カプール、そしてシャシ・カプールの息子クナール・カプールなどが出演している。
言語は主に英語であり、時々ヒンディー語のセリフが入る。サンスクリット語のガーヤトリー・マントラが唱えられる場面もあるし、ベンガル語の挿入歌が印象的な使われ方をしている。総じて、マルチリンガルな映画である。
ガンガー(ガンジス)河で平和だが退屈な生活を送っていたブラーフマン(バラモン)青年スィッダールタ(シャシ・カプール)は、父親の許しを得て、親友のゴーヴィンダー(ローメーシュ・シャルマー)と共にサードゥ(遊行者)になる。二人は修行をしたり瞑想をしたりして悟りを求めるが、なかなか目的は達成できなかった。ブッダの噂を聞いて彼の説法を聞きに行く。ゴーヴィンダーはブッダに心酔し彼に付いて行くことを決めるが、スィッダールタは自分の道を行くことにする。
スィッダールタはカマラー(シミー・ガレーワル)という美しい娼婦と出会い恋に落ちる。商人カーマスワーミー(ピンチュー・カプール)の下で働きながらカマラーと会い続けるが、その内彼は空しさを感じるようになり、彼女の元を去る。スィッダールタは商売で成功するが、それも投げ出してしまう。全てを捨ててたどり着いたのは貧しい船頭ヴァースデーヴァのところだった。求道の旅に出たスィッダールタはかつて彼の家で一晩を過ごし、彼の渡し船に乗って川の対岸に渡してもらっていた。スィッダールタはヴァースデーヴァと共に船頭の仕事をし始める。
歳月が流れ、スィッダールタはブッダが涅槃に入ったとの噂を聞く。その後、彼はカマラーと再会する。カマラーはコブラに噛まれ瀕死の状態だった。彼女と共に一人の少年がいたが、それはスィッダールタとの間に出来た子供であった。カマラーは死に、スィッダールタはその子を引き取る。だが、その子はスィッダールタを父親とは認めず、やがて一人で森の中に入って姿をくらましてしまう。
ヴァースデーヴァも老い、船頭の仕事をスィッダールタに譲って姿を消した。船頭の仕事を続けるスィッダールタの元にゴーヴィンダーがやって来る。スィッダールタはゴーヴィンダーと共に船頭をするようになる。
鴨長明「方丈記」の「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」を思わせるストーリーだ。求道者となった主人公スィッダールタは、修行をしたり瞑想をしたり、ブッダの説法を聞いたり遊女との恋に溺れたりしながら、最終的に老船頭の弟子になって、川と共に生きる人生を選ぶ。彼は川ほど優れた教師はいないと気付き、そこから「川はとどまらない。川はまた元に戻る」という人生の重要なエッセンスを抽出する。彼にとってそれが悟りの境地であった。
そこにオリエンタリズム的な眼差しが入っていることは否めない。実際にインドで撮影が行われているものの時代考証にはほとんど注意が払われておらず、ブッダの生きた2600年前のインドが忠実に再現されているとはいいがたい。あくまで西洋人の考える理想のインドが映像化されている。また、スィッダールタが青年から老人になるまでのかなり長い時間を、飛び飛びのシークエンスによって見せている。よって、時間の進行は早い。「悠久のインド」を描きたいのに、急ぎすぎてしまっているような印象も受けた。登場人物が基本的に英語で会話する点もどうも慣れない。映画の完成度は決して高くない。
この映画がインド映画史に名を残しているのは、インド人女優が初めてトップレスになって乳首を露出した作品であるからである。米国人監督の作品であるし、米印合作映画でもあるので、これをインド映画に含めるかについては議論が分かれる。だが、この「Siddhartha」で娼婦カマラーを演じたシミー・ガレーワールは正真正銘のインド人である。彼女は既に「Mera Naam Joker」(1970年)でフルヌードになっていたが、そのときカメラに映し出されたのは彼女の背中だけだった。この「Siddhartha」で彼女はとうとうトップレスになった。もちろん、インドでは検閲を通らず上映禁止になったが、歴史的な出来事であった。シャシ・カプールとシミー・ガレーワールはこの映画で情熱的なキスやベッドシーンも演じている。
ブッダが登場する映画という点でユニークである。「Siddhartha」という題名から、ブッダが主人公の映画だと勘違いしがちなのだが、あくまで主人公はブッダと同時代の求道者であり、ブッダは別に登場する。スィッダールタの前でブッダは、「この世は苦であり、執着がそれを生む」といった仏教の教えを説いている。ただ、ブッダの顔は映し出されていない。宗教的な問題の誘発を避けるためにあえて顔を映さなかったのだろう。
ただ、スィッダールタはブッダに帰依はせず、独自の道を歩む。ブッダに付いて行った親友ゴーヴィンダーは、その後スィッダールタと再会するが、悟りは得られていないようだった。むしろ自分の道を追究し、川と共に生きる人生を選んだスィッダールタの方が人生の真理を悟っていた。そういう意味では仏教を肯定的に捉えていない映画だと見なすこともできる。
ラージ・カプールの弟シャシ・カプールは1960年代に既にスターになっており、この「Siddhartha」への出演は大きな挑戦だったといえる。英語の映画への出演は既に「The Householder」(1963年)で経験済みであったが、インドにおいてキスシーンやベッドシーンはスターのイメージを損ないかねず、簡単に踏み出せるものではない。それはシミー・ガレーワールにとってさらに大きな課題となるが、彼女は堂々とトップレスになり、シャシとの情熱的なベッドシーンもこなしている。
撮影はリシケーシュやバラトプルで行われたとされる。冒頭、ガンガー河の河畔に建つアーシュラム(道場)でスィッダールタが退屈な毎日を過ごしているシーンがリシケーシュで撮影されたのだと思われる。スィッダールタがカマラーと出会った後に登場する宮殿はバラトプルのものであろう。
「Siddhartha」は、米国人監督がドイツ人作家の小説を原作にし、インド人俳優たちを起用して撮った多国籍な映画である。いかにもオリエンタリズムにかぶれた西洋人が好きそうな主題の映画であり、そこで語られる哲学的な言葉の数々も薄っぺらいものだった。だが、インド人女優が初めてトップレスになった作品としてインド映画史でその名が刻まれている。話題に事欠かない作品である。