
1966年5月6日公開のベンガル語映画「Nayak(スター)」は、サティヤジト・ラーイ(サタジット・レイ)監督の2本目となるオリジナル脚本映画である。ラーイ監督は自身のキャリアの中で文学作品を映画化することが多かったのだが、「Kanchenjungha」(1962年)で初めて脚本から自分で書き、「Nayak」が後に続いた。日本では2025年のサタジット・レイ・レトロスペクティブで初公開され、「主人公」という邦題が付けられた。
主演はウッタム・クマールとシャルミラー・タゴール。ウッタムはベンガル語映画界を代表する「マハーナーヤク(大スター)」である。彼がラーイ監督の作品に出演したのはこれが初となる。一方のシャルミラーはラーイ監督の「Apur Sansar」(1959年/邦題:大樹のうた)でデビューしたこれまた大女優である。現代のインド映画ファンにはサイフ・アリー・カーンの母親といった方が通りがいいだろう。
他には、ビーレーシュワル・セーン、ソーメーン・ボース、ニルマル・ゴーシュ、プレーマーングシュ・ボース、スミター・サーンニャール、ランジート・セーン、バーラティー・デーヴィー、ラーリー・チャウダリー、カームー・ムカルジー、スシュミター・ムカルジー、スブラター・セーンシャルマー、ジャムナー・スィナー、カマル・ミシュラー、ジョーゲーシュ・チャタルジー、サティヤ・バナルジー、ゴーパール・デーなどが出演している。
ベンガル語映画スターのアリンダム・ムカルジー(ウッタム・クマール)は、賞を受け取るために夜行列車でデリーに向かっていた。元々乗り気ではなかったが、新作の評判が芳しくないこと、また、一昨晩に酔っ払って暴行した事件が新聞を賑わしていたことなどが重なり、気分転換のために列車の旅を選んだのだった。
アリンダムは当初、彼に批判的な批評家アゴール・チャタルジー(ジョーゲーシュ・チャタルジー)と同室になるが、車掌(ゴーパール・デー)の機転で別のコンパートメントに移動する。そこでは、実業家ハレーン・ボース(ランジート・セーン)とその妻マノーラマー(バーラティー・デーヴィー)、そして二人の娘でアリンダムの大ファンの少女ブルブル(ラーリー・チャウダリー)と同室になる。広告会社のプリティーシュ・サルカール(カームー・ムカルジー)は、美しい妻モリー(スシュミター・ムカルジー)の色気を使ってハレーンに取り入ろうとしていた。
同じ列車には、女性誌「アードゥニカー」の編集長アディティ・セーングプター(シャルミラー・タゴール)が乗っていた。アディティはアリンダムがいることを知り、従妹のシェーファーリカー・デーヴィー(ジャムナー・スィナー)にもあおられて、食堂車で彼にインタビューを申し込む。だが、アリンダムはアディティの見下した態度が気に入らず、インタビューはうまく行かなかった。
アリンダムは一眠りするが悪夢を見る。夢の中に、かつての師シャンカル・ダー(ソーメーン・ボース)が現れ、札束の中に埋もれる彼を助けてくれなかったのだ。目を覚ましたアリンダムは食堂車にいるアディティのところへ行き、今見た悪夢の話をする。そこから彼は、自身の過去を彼女に少しずつ明かす。初出演映画で共演したベテラン俳優ムクンダ・ラーヒリー(ビーレーシュワル・セーン)が没落したときに助けなかった話、また、長年の友人ビーレーシュ(プレーマーングシュ・ボース)を裏切った話などもする。話を聴いている内にアディティは彼を励ますようになる。
その晩、アリンダムは言い知れぬ不安に駆られて酔っ払い、列車から飛び降りて死のうとする。そのとき彼はアディティから声を掛けられる。アリンダムは、女優志望の既婚女性プラミラー・チャタルジー(スミター・サーンニャール)と恋仲になり、その夫とケンカになって暴行をしてしまったことを思い出す。アディティのおかげで自殺を思い止まったアリンダムはコンパートメントに戻り、睡眠薬を飲んで寝る。
翌朝、食堂車でアリンダムはアディティと再会する。アディティは彼の前でインタビュー記事を破り捨てる。列車はデリーに着き、アリンダムはスターに戻っていた。
多数の人物が登場し、複数のエピソードが並行して描かれる、いわゆる「グランド・ホテル」(1932年)方式の映画に一応分類できる。実業家ハレーン、病気の少女ブルブル、ハレーンに取り入ろうとする広告業者サルカール、謎の宗教団体WWWWの宗教家など、個性的なキャラが何人も登場し、それなりに存在感を示す。ただ、主人公ははっきりしている。それはウッタム・クマール演じるアリンダムに他ならない。アリンダムを軸にして、その他の登場人物たちのサイドストーリーが同時展開し、全体としてひとつのストーリーを成している構成である。
面白いのは、「現在」のシーンで複数のエピソードが描かれると同時に、アリンダムの見る夢や、彼の回想も重層的に描かれることだ。しかも、それらが「現在」の彼の精神を説明する仕掛けになっている。実際には「Nayak」は、頂点まで上り詰めたスター俳優の不安定な内面世界に迫った心理映画である。そこにラーイ監督の類い稀なセンスが見出せる。
アリンダムは誰もが知る有名な映画スターであった。公衆の前で彼はスターとしての顔を崩しておらず、常に自信満々で、常に笑顔を振りまいていた。だが、サングラスの奥で彼は公衆を疑っていた。今、あたかも大ファンであるかのようにちやほやしてくれている人々も、何かきっかけがあればすぐに彼を離れてしまうことを知っていたし、そのときが来るのを恐れていた。その恐怖は、ベテラン俳優ムクンダのあっけない没落を目の当たりにしたことから生じていた。最近、彼の主演作は立て続けに失敗しており、まさにそのときが今来たのではないかという不安に駆られていた。だからこそ彼は気分転換のために、全く興味のない賞を受け取りにデリーまで夜行列車で行くことを決めたのだった。
もうひとつ、彼が直近で直面していた問題は、一昨晩のパーティーで酔っ払った彼が起こしてしまった暴行事件であった。もみ消しに失敗し、新聞で報道されてしまった。これから大きなスキャンダルになることが予想され、それから逃げ出したい気持ちもあった。
暴行だけならまだ何とかなるかもしれないが、その原因となったのは彼自身が女優志望の既婚女性に入れ込んだことだった。アリンダムは彼女を主演女優に抜擢する代わりに彼女と深い関係になった。だが、パーティーで彼女の夫と遭遇してしまい、暴行してしまったのである。それがマスコミに嗅ぎつけられたらと思うと気が気ではなかった。女優志望のモリーから同じようなお願いをされたことで、彼は過去の過ちを思い出す。
スターとして成功したことに達成感は感じていたが、果たしてそれが彼に幸せをもたらしたのかは実際のところ分からなかった。そんなときに彼が思い出したのは、芝居の師匠シャンカル・ダーであった。まだ駆け出しの俳優だった頃のアリンダムは、シャンカル・ダーの劇団で芝居をしていた。シャンカル・ダーは映画を毛嫌いしていた。アリンダムはシャンカル・ダーに内緒で映画出演を模索し、彼の死後すぐに映画俳優に転向した。映画俳優としての第一歩は決して心地よく踏み出したものではなく、裏切りの味がしていた。
裏切りといえば、もうひとつアリンダムは重大な裏切りをしていた。彼にはビーレーシュという学友がいた。アリンダムは俳優になったが、ビーレーシュは労働者のために抗議活動に従事する活動家になっていた。ビーレーシュは逮捕され、5年間服役もしていた。釈放されたビーレーシュは再び活動を始め、運動を盛り上げるため、スターになったアリンダムに助力を求める。だが、政治に関与しスターのステータスが損なわれることを恐れたアリンダムは逃亡する。
外から見れば成功したスターであるアリンダムの内面にある弱さを見抜いたのが、女性誌編集長のアディティであった。アディティは、能動的に彼にインタビューしようとして一度失敗するが、後に彼は自ら彼女に語り出し、それを傾聴することで彼女は彼から面白いストーリーを引き出すことに成功する。だが、そこにあったのは後悔、裏切り、不安など、表向きのイメージとは正反対の姿であった。記事にすれば世間の注目を集める記事になったかもしれない。だが、同情の方が勝ち、アディティはアリンダムの記事を掲載することを止める。アリンダムには常にスターでいてほしかったのである。
巧みなのは、夜行列車という限定された空間で繰り広げられる「現在」のストーリーを軸にしながら、アリンダムの過去の回想や、彼の見る夢を映像化したドリーム・シークエンスなどを相互に影響させ合いながら、彼の心理の奥底までを照らし出そうとしている点だ。多くはセリフなどの言語によっては語られず、映像の解釈によって理解することが求められる。
この映画でもっとも有名なのは、札束の山の中でアリンダムが恐怖を体験する悪夢のシーンである。スターとして成功し、巨万の富を手に入れながらも、かつての師を裏切った後悔や、常に世間の評判にさらされる不安定な人生などにさいなまれる様子が、映像のみによって表現されている。
冒頭の場面にも注目したい。ウッタム・クマールの顔がなかなか映し出されず、彼の体の部位だけが映し出される時間帯が意図的に長く続いている。インド映画によくあるじらしの一種だといえるかもしれないが、これも彼の心理状態を表現していると捉えてもいいだろう。
劇中の時代は、映画が公開された1960年代とほぼ同じと受け取っていいだろう。気になったのは、映画や映画スターに対して批判的な考えを持った人々がやたら多く登場したことだ。いかにも偏屈そうな年配の批評家、先進的な女性を支持する立場の女性誌編集長、そして舞台俳優よりも映画俳優を下に見る演劇家など、映画が社会悪として考えられていた時代の雰囲気が感じられる。その一方で、特に一般女性たちは映画スターにぞっこんであり、アリンダムは大人気だった。これもまた事実なのだろう。
登場時からほとんどしゃべらず、最後の最後になって雄弁に語り出す謎の宗教家は、前年に公開されたラーイ監督の「Mahapurush」(1965年/邦題:聖人)に登場した宗教家ビリンチー・バーバーを思わせるキャラだ。二本立てで公開された「Kapurush」(1965年/邦題:臆病者)と「Mahapurush」は駅という場所で接続されていたが、「Mahapurush」と「Nayak」はこの宗教家という人物で接続されていたといえる。そして、題名を順に並べてみると、「臆病者」から「偉人」となり、そして「スター」というように連続性が見出せる。ここに意図を感じずにはいられない。そして、これらの作品は共通して現代人の内面的な弱さを克明に描き出す心理映画になっている。たとえ肩書きが立派になろうとも、中身はそう変わるものではないというラーイ監督のメッセージが込められていると感じる。
「Nayak」は、走行中の夜行列車というほぼ密室を舞台にし、それぞれに思惑を持った複数の登場人物が織り成す群像劇のフォーマットにのっとりながら、大スターの脆弱な心理に迫った傑作の心理映画だ。冒頭の入り方やドリーム・シークエンスなど、映像的な実験も行われている。ラーイ監督がなぜ巨匠と呼ばれるのかよく分かる作品のひとつである。
