今日は、2005年5月20日公開のヒンディー語映画「Nazar」をグルガーオンのPVRメトロポリタンで観た。やはりデリー映画館連続爆破テロの影響で警備が超厳重となっており、手荷物は一切持ち込めない状態となっていた。しかも、以前まではクロークがあったのだが、それすらも閉鎖されていた。客は手荷物を自動車に置いて来るよう指示されていたが、自動車以外の交通機関で来た人はどうすればいいのか?館員は「すみません、自己責任で管理して下さい」と繰り返すばかりで、具体的な代替策は用意していなかった。インドは時々極端から極端へ急転するのでどうしようもない。
「Nazar」とは「目」、「視線」という意味。この映画プロデューサーはマヘーシュ・バット、監督はソーニー・ラーズダーン、音楽はアヌ・マリク。キャストは、アシュミト・パテール、ミーラー、コーエル・プリー、アリー・カーンなど。
ムンバイーに住む人気シンガーのディヴィヤー(ミーラー)は、ある夜、血まみれになって道路に倒れていた女性を見てから、他人には見えないものが見えるようになった。誰かが殺されるシーンが目に浮かんで来るのだ。ディヴィヤーは知り合いの医者タルン(アリー・カーン)に相談するが、「疲れとストレスだろう」と真剣に取り合ってもらえなかった。 そのとき、ムンバイーではバーダンサーを標的とした連続殺人事件が発生していた。捜査を担当することになった女性刑事スジャーター(コーエル・プリー)は、かつて同様の事件を担当した経験を持つローハン(アシュミト・パテール)をチームに加える。ローハンは連続殺人犯に愛妻チェートナーを殺されたという過去を持ち、すさんだ毎日を送っていた。その連続殺人犯が2ヶ月前に脱獄したこと、そして今回の連続殺人犯の手口が非常に似ていることから、ローハンは捜査への協力を承諾する。 しかし、警察をあざ笑うかのように連続殺人は続いて行った。ちょうどディヴィヤーが入院していた病院でも、バーダンサーが殺害された。そのシーンを神通力で見たディヴィヤーは、スジャーターにそのことを伝えるが無視される。だが、ローハンはディヴィヤーの話に興味を持つ。ディヴィヤーの不思議な力により、捜査が進展したことで、ローハンはますますディヴィヤーを信じるようになる。それと同時に、密かにローハンを愛していたスジャーターは嫉妬を募らせる。また、やはりディヴィヤーを密かに愛していたタルンもローハンに疑いの目を向けるようになる。 ディヴィヤーは、呪術師に相談することによって自身の力を悟ると同時に、「お前の死が迫っているが、その死に直面せよ」との助言を得る。また、ディヴィヤーは、血まみれになって道路に倒れていた女性と会ってから変なことが起こるようなったことに気付く。その女性のことを調べてみると、やはりそのサークシーと呼ばれていた女性も同じような神通力を持っていたことが分かる。ディヴィヤーは、サークシーが自分を殺した人間に復讐するためにこの力を彼女に与えたのだと悟る。 そのとき再び連続殺人事件が起こるが、犯人が逮捕される。それはディヴィヤーの叔父だった。だが、ローハンもディヴィヤーも彼が真犯人だとは思えなかった。自宅に戻ったディヴィヤーは、遂に自身の死のシーンを神通力で見る。異変を感じたローハンは、ディヴィヤーの家に駆けつける。まずディヴィヤーの家を訪れたのはタルンだった。タルンはディヴィヤーに襲い掛かるが、間一髪のところでタルンは射殺される。銃を撃ったのはスジャーターだった。スジャーターはディヴィヤーをマンションの屋上へ連れて行く。だが、ディヴィヤーが見た映像はこうではなかった。・・・と思っていたら、スジャーターがディヴィヤーに襲い掛かる。実はスジャーターが連続殺人事件の犯人だったのだ。スジャーターは、亡き夫の放蕩生活のせいでエイズに感染していた。そこで彼女は、夫にエイズを感染させたバーダンサーの女たちを殺害して復讐していたのだった。だが、ディヴィヤーは駆けつけたローハンにより助けられ、スジャーターはマンションの屋上から落下して死亡する。
この映画は「Naina」(2005年)と同じ日に公開されたが、奇しくも「Nazar」と「Naina」のプロットは非常によく似ていた。両方とも香港・タイ合作の「見鬼(Jain Gui/The Eye)」(2001年)という映画を基に作られたらしい。だが、この2作を比べると、圧倒的に「Naina」の方がよくできた映画である。それを知っていながら「Nazar」をわざわざ観たのは、この映画はいろいろと曰く付きだったからだ。
実は「Nazar」で主演を務めたミーラーは、パーキスターン映画界の人気女優である。よって、「Nazar」は、「初の印パ合作映画」として売り出されている。ただ、印パ独立後、過去にもインド映画にパーキスターン人の俳優が出演したことはあった。2003年ロカルノ国際映画祭で金豹賞を受賞したパーキスターン映画「Khamosh Pani」(2003年)に、キラン・ケールなどのインド人俳優が出演していたことも記憶に新しい。マヘーシュ・バット制作の「Paap」(2003年)や「Murder」(2004年)では、パーキスターンの人気ロックバンド、ジュヌーンや歌手アミール・ジャマールが音楽に参加している。インドとパーキスターンの映画界は、親密とは言えないけれども、時に協力し合って映画を制作して来た。
だが、この映画が一躍有名になったのは、「ミーラーがインド映画でインド人男優とキスシーンを演じた」という噂がパーキスターンで広まったからだ。確かにこの映画では、際どい肌の露出シーンや、唇が触れるか触れないかの寸止めキスシーンはあったものの、いわゆる本物のキスシーンはなかった。キスシーンが物議を醸したからカットされたのか、それとも最初からそんなものはなかったのに噂だけが先行してしまったのか、よく分からない。だが、「Nazar」を巡る事件は、「誰も中身を見ていないのに批判だけが存在する」という、よくある状況となっている。
ラサ理論で「Naina」と「Nazar」を比較すると、前者は「恐怖+勇猛+恋愛」のラサで構成されていた一方、後者は「驚嘆+恐怖+恋愛」のラサで構成されていたと思う。「Naina」は基本はホラー映画で、一人の女性が自身に与えられた使命を勇気を以って克服し、そして愛を手に入れるという筋だった。「Nazar」は、前半はホラー映画的なのだが、全体的にはサスペンス映画で、それに恋愛の絡み合いがあった。
「Nazar」のストーリーには一応ひねりがあったと思う。バーダンサー連続殺人事件の犯人は、当初は過去に連続殺人事件を起こした凶悪犯だと考えられる(後に彼は獄中で死んでいたことが明らかになる)。しかし同時に真犯人はディヴィヤーの叔父のように描写されるが、次第にタルンが怪しいのではないか、という展開になって来る。案の定タルンがディヴィヤーの自宅に押しかけるのだが、実は真犯人は、女性刑事のスジャーターだった、というどんでん返しである。しかし、スジャーターが連続殺人を行う動機があまりにしょぼかった。バーガールを買春していた亡夫にエイズを感染されたから、バーガールに復讐する、というのだ。また、ディヴィヤーを殺そうとする動機は、密かに恋していたローハンを取られたからという、これまた幼稚なもの。この点はもう少しひねってもらいたかった。
ミーラーはパーキスターンで10年間のキャリアがあるだけあり、ちゃんとした演技力を持っていた。その顔立ちはかなり立体的で、全体的に「かわいい系」に徐々に徐々に移行しつつあるヒンディー語映画界の女優陣と比べると、「典型的美人」と言った感じだ。ラヴィーナー・タンダン型の顔か。言い換えれば、パーキスターンでは女優の顔の流行がインドよりも少し遅れているように思えた。唇のそばにホクロがあるのも、何となくマリリン・モンローのような古風な美的感覚を想起させる。
助演女優の扱いになるコーエル・プリーは、ヒステリックな役を演じさせたら右に出る者はいない女優だ。「White Noise」(2005年)での彼女の演技はなかなかのものだった。あまり美人ではないし、黒板を爪で引っ掻いたようなハスキーな声なのだが、ヒステリックにわめき散らす彼女の演技を見ていると、「素でこんな感じなんだろうな・・・」と心配してしまうほどだ。
女優陣の好演に比べると、男優陣は情けなかった。アミーシャー・パテールの兄、アシュミト・パテールは、ジョン・アブラハムみたいな髪型をしてどういうつもりか知らないが、表情とセリフに力がなかった。アリー・カーンは・・・もっとマシな顔の男優はいなかったのかと苦情を言いたくなった。
この映画を機に、印パ映画界の交流が活発化していくかもしれない。だが、残念ながらそれは、ヒンディー語映画界がパーキスターン映画界を呑み込む形になってしまわざるを得ないだろう。ヒンディー語映画界の力はそれほど圧倒的だ。何の規制もなしに両国の映画人が行き来したら、まるでメジャーリーグに有能な選手を次々に奪われる日本の野球界のように、結果的にはパーキスターン映画界が枯渇して行ってしまうだろう。パーキスターン映画界がそれを自覚していないとは思えない。だから、印パ映画界の交流はこれからも非常に慎重に行われることになると予想している。「Nazar」でのキスシーンを巡る騒動も、その慎重な姿勢の表れだと言っていいだろう。