2004年11月12日、ディーワーリー週に同時公開された4本のヒンディー語映画の内、最も異彩を放っているのは何と言っても「Mughal-e-Azam」である。「Mughal-e-Azam」は1960年に公開されたインド映画史上最大の歴史スペクタクル映画で、数々の記録と伝説を生み出した傑作中の傑作だ。15年の歳月、そして1本平均100万ルピーで映画が作られていた時代に、その15倍にあたる1,500万ルピーの予算を費やして制作されたという事実だけでも驚嘆に値する。もっとも、時間と金だけ費やせばいいというものではない。しかし、これだけ多大な時間がかかってしまったのは、「Mughal-e-Azam」制作にいくつか不測のトラブルが付きまとったからだ。最も大きかったのは、1947年の印パ独立である。スポンサーやスタッフの多くがパーキスターンに移住してしまったため、映画制作は中断を余儀なくされた。その1年前の1946年にはサリーム王子を演じる予定だったチャンドラモーハンが病死するという不幸もあった。映画撮影が再開されたのは1951年になってからである。もうひとつインド映画界にとって大きな転機だったのは、1957年にインドにカラー映画の技術が上陸したことだ。カリームッディーン・アースィフ監督は実験的にいくつかのシーンをカラーで撮影した。よって、「Mughal-e-Azam」は基本的に白黒映画でありながら、一部だけカラーになっている(85%白黒、15%カラー)。見ていると突然カラーになるのでけっこうビックリする。カラー部分の出来があまりによかったため、アースィフ監督は全編カラーで撮影しなおそうとしたらしいが、アースィフ監督の夢はスポンサーによって制止され、部分カラーの白黒映画という、今から見るとかなり変則的な構成で公開された。
まずは映画プロフィールを紹介しておく。「Mughal-e-Azam」とは「偉大なるムガル帝国」という意味。監督はカリームッディーン・アースィフ、音楽はナウシャード。キャストは、プリトヴィーラージ・カプール(カリシュマー&カリーナー・カプールの曾祖父)、ディリープ・クマール(当時の大人気スター)、マドゥバーラー(インド映画史上最高の美人と言われる)、ドゥルガー・コーテー、ニガール・スルターナーなど。
そして、「Mughal-e-Azam」公開から44年の歳月が過ぎ去った。この間に、「Mughal-e-Azam」に関わった人々は次々に死去していった。1969年にはマドゥバーラーが、1971年にはアースィフ監督が、1972年にはプリトヴィーラージ・カプールが、1991年にはドゥルガー・コーテーが、2000年にはニガール・スルターナーが死去した。後に残った主要メンバーは、主演のディリープ・クマールと音楽監督のナウシャードの2人くらいだ。しかし、人は死ねども作品は残るものだ。そしてときに、時間の経過と共にますます作品は輝きを増すものだ。2004年11月12日、「Mughal-e-Azam」はまたひとつ新たな伝説をこのヒンドゥスターンの地に刻み込むためにスクリーンに舞い戻ってきた。文字通り、輝きを増して・・・。全編カラーの「Mughal-e-Azam」!故アースィフ監督が遂げることのできなかった夢が、技術の進歩により可能となったのだ。白黒の長編映画をカラー化する技術はハリウッドでもまだ例がないという。ハリウッドはTV公開に足りるだけのカラー化ぐらいしか今までやっていなかった。だが、ヒンディー語映画界は前代未聞の偉業に挑戦し、それを実現させてしまった。ヒンディー語映画界が技術的にハリウッドに勝った最初の例だと言える。
カラー版「Mughal-e-Azam」の予算は5,000万ルピー。カラー化はインド芸術アニメ学院が請負い、2002年から始められた。まずはカラー化のソフトウェアを制作するのに18ヶ月の時間が費やされ、実際の着色作業にはさらに10ヶ月が費やされた。着色だけでなく、音楽もオリジナルの音楽監督ナウシャードの監督の下、再録音とデジタル・リマスタリングされた。改めて発売されたサントラCDを買って聴いた限りではそれほど音がよくなっているように思えなかったが、映画館で聞いたらその音のきれいさに驚いた。カラー版は白黒版に比べて27分短くなっており、2曲がカットされた。
今日はその全編カラーの「Mughal-e-Azam」をPVRアヌパム4で神妙に鑑賞した。以前僕はDVDで白黒版の同映画を観ており、その質の高さと独特の雰囲気に感動していた。つまり、この映画を観るのは2回目ということになる。しかし、今日のこの体験は、その初見の感動を遥かに越えた。まさに歴史的体験。そして映画館でクラシックの名作を鑑賞することができるこの幸せ。映画館は満席となっており、いつもに比べて年配の人が多かった。おそらく44年前に映画館で「Mugahl-e-Azam」を見た世代だろう。隣に座っていたおじさんは、最初のミュージカルシーン「Mohe Panghat Pe」が始まった辺りから目をこすり始め、その後何度も何度も涙をぬぐっていた。僕もついついつられて目頭が熱くなった。きっとこの映画に対して何か思い出があるのだろう。ディリープ・クマール自身も、試写会でこの映画を見終わった後に涙を流し、「夢だった・・・」と語ったという。同じように涙を流した年配の映画ファンは少なくないと思う。
是非観てもらいたい映画ではあるが、実は話されている言語が難解な演劇調のウルドゥー語なので、ヒンディー語の知識だけでは全く太刀打ちできない。古典映画が好きな人向け、ということにしておく。一応簡単にあらすじだけを載せる。
ムガル朝第3代皇帝ジャラールッディーン・ムハンマド・アクバル(プリトヴィーラージ・カプール)は、長年待ち望んだ息子を聖者シェーク・サリーム・チシュティーの恩恵により授かった。息子はヌールッディーン・ムハンマド・サリーム(ディリープ・クマール)と名付けられ、大切に育てられた。だが、軟弱な男に育つことを危惧したアクバルはサリームを宮廷の豪奢な生活から追い出して辺境地帯へ送り込んだ。サリームは勇ましい戦士に成長し、敵を次々と撃破して、ムガル王朝の領土を広げた。 サリームは約20年振りに王宮へ戻って来ることになった。サリームの母親ジョーダー(ドゥルガー・コーテー)はずっと息子の帰りを待ちわびていた。サリームは王宮で盛大に迎えられる。侍女のバハール(ニガール・スルターナー)は、サリームの気を惹いて何とか将来の皇帝の后になろうと野心を燃やすが、サリームが恋に落ちたのは、ジャナマーシュトミー(クリシュナの誕生日)に踊りを踊った踊り子のアナールカリー(マドゥバーラー)だった。サリームとアナールカリーは身分の差を越えた禁断の恋へ足を踏み入れるが、バハールはそれを邪魔する。サリームとアナールカリーの恋愛は遂にアクバルの知るところとなり、アナールカリーは捕えられて牢屋に入れられてしまう。アクバルはアナールカリーにサリームを忘れるよう、またサリームに彼女のことを忘れさせるように命令する。 アナールカリーが解放されると、バハールはサリームに告げ口をする。アナールカリーは黄金と引き換えに牢屋を出て、最後に踊りを踊って宮廷を去る、と。サリームはその告げ口を信じ込んで激怒し、アナールカリーをぶつ。アナールカリーはサリームに対する愛を明らかにするため、アクバル、サリーム、ジョーダーの前で「恋をしたなら何を恐れることがあろうか」という内容の歌を歌って踊りを踊る。激怒したアクバルはアナールカリーを再び捕える。サリームはアナールカリーを連れて宮廷を脱出しようとするが果たせなかった。アナールカリーはまたも捕えられ、サリームはデカン高原の戦場に送られる。 アクバルはアナールカリーを年老いた石工と結婚させようとするが、一計を案じた石工はそれをサリームに密告する。サリームは怒ってアクバルに反旗を翻す。アクバルは出陣前にアナールカリーを死刑にしようとするが、サリームの忠実な部下、ラージプートのドゥルジャンは彼女を救い出してサリームの元へ駆けつける。アクバルとサリームの戦争は避けられない状態となった。アクバルは一人息子と戦わなくてはならないことに心を痛めるが、ヒンドゥスターンの運命を第一に考えなくてはならない皇帝の威厳に賭けて、謀反人を撃破せねばならなかった。戦争はアクバルの勝利に終わったが、サリームは殺されず生け捕りにされた。アナールカリーはドゥルジャンに連れられてカーンプルに匿われていた。 宮廷ではサリームの裁判が行われた。アクバルはアナールカリーを引き渡すことを求めるが、サリームは拒否する。それにより、アクバルはサリームに死刑を宣告せねばならなかった。死刑執行の日、サリームは「今日、私が死ぬ日、それは愛の勝利の日だ!」と宣言し、意気揚々と死刑台へ上る。サリームが死刑になる瞬間、その場にアナールカリーが現れ、サリームの死刑は中止となる。アナールカリーは生きたままレンガの中に閉じ込められる刑を言い渡される。死ぬ前にアナールカリーは、最期の願いとして、一瞬だけ女王になることを訴える。サリームは以前アナールカリーに、彼女を女王にさせると約束したのだった。その約束をサリームに破らせないため、アナールカリーはその要望を出したのだった。アクバルはそれを受け容れ、サリームとアナールカリーは束の間の幸せを楽しむ。そしてそれが終わると、アナールカリーはサリームに睡眠薬を嗅がせ意識を失わせる。 アナールカリーの死刑執行のときがきた。そのとき、彼女の母親は昔アクバルが彼女に交わした約束を思い出す。「何かひとつ何でも望みを叶えてやろう。」そう言ってアクバルは彼女に指輪を与えた。母親は指輪を見せてその約束をアクバルに思い出させ、娘の命を助けてくれるよう頼む。最初アクバルは拒否するものの、初代皇帝バーバルから伝わるムガル王朝の正義の象徴、天秤が小さな指輪によって傾いたことにより思いなおす。 アナールカリーはレンガの奥に閉じ込められた。しかし床には仕掛けがあり、彼女は地下の秘密トンネルに降りていた。アクバルは彼女の母親を地下に連れてきて、アナールカリーと引き合わせる。ヒンドゥスターンの皇帝アクバルは、絶大な権力と責任ゆえに、アナールカリーの命を助けることだけしかなかった。アクバルはアナールカリーと母親に、このまま秘密トンネルを通って国外へ出るよう指示する。サリームには彼女の生存は明かされることはなかった。その後、サリームはムガル朝第4皇帝ジャハーンギールとなったが、アナールカリーがどうなったかは・・・知る者はいない。ただ、ヒンドゥスターンの地のみが、アクバルの苦悩と偉業を記憶していた。
白黒映画をカラー化することには少なからず批判がある。古典的名作のカラー化は、クラシック作品に対する冒涜だと主張する意見も聞かれた。しかしおそらく、そういう批判をする人はカラー版を見ていないのだと思う。一度でもカラー版「Mughal-e-Azam」を見れば、その批判が正鵠を射たものでないことが明らかになるだろう。白黒映画をここまで自然な発色に変えることができるのは魔法としか言いようがない。感動的な体験だった。
そして何よりも嬉しかったのは、古典的名作を映画館で、大きなスクリーンで、インド人観客と共に見ることができたことである。僕はインド映画ファンとして、なるべく古典的名作も見たいと思っているが、同時に「映画は映画館で見るべし」という自身の美学に縛られており、あまり進んで昔の傑作を見ていない。インド映画のタイトルがDVDで出揃ってくれたおかげで、映像や音声の質は格段に進歩したが、それでもTV画面で見るのとスクリーンで見るのとでは天と地の違いがある。だが、「Mughal-e-Azam」のカラー化の成功は、そんな僕の弱点を解消してくれる予感を沸き起こさせてくれた。これから過去の傑作のカラー化が進み、コンスタントに映画館で公開されるようになるかもしれない。今年8月には、ムンバイーで「Sholey」(1975年)が再公開されて話題になった。こういうリバイバルの風潮は僕は個人的に歓迎したい。
見所だらけの映画ではあるが、僕が一番好きなのは「Teri Mehfil Main Kismat Aazmakar(君の宴でわたしもわが運命を試してみましょう)」のミュージカルと、「Pyar Kiya To Darna Kya(恋をしたら何を恐れようか)」のミュージカルである。前者は、アナールカリーとバハールがサリームの前でカッワーリー(イスラーム宗教歌の一種)の喉自慢対決をするシーンである。バハールはアナールカリーとサリームの恋愛を皮肉って、「恋に狂った男女の結末は死、その無様な最期をじっくりと見てやりましょう」と歌うのに対し、アナールカリーは「涙なくして人生何が楽しいものか、恋に死んでも世界は恋人たちをいつまでも記憶するだろう」と切り返す。二人の恋の哲学を聞き終わったサリームは、1本のバラを折り、バハールにはバラの花の部分を、アナールカリーにはバラの茎の部分を渡す。バハールの無難な恋の結末は花、アナールカリーの一途な恋の結末は棘。見事なシーンだと思う。後者のミュージカルは、アクバルにサリームを忘れるように強要されたアナールカリーが、アクバルやサリームの前で、声高々に「恋をしたんだ、泥棒をしたわけじゃない、何も恐れることはない、殺すなら殺してみろ」と宣言した歌である。白黒版では、このミュージカルのときに突然カラーになる。シーシュ・マハル(鏡の間)を再現したセットは鏡や宝石で飾り立てられ、観客の目を圧倒する。カラー版でもその美しさは健在で、元々カラーだっただけあって他の部分よりも色は天然に近かった。ひとつひとつのミュージカルには重要な意味が含まれており、インド映画ではセリフと同時に歌詞にも注意を払わなければならない。ストーリーと挿入歌の歌詞の関連性は、インド映画の良し悪しを見極める重要な要素である。
最後に、「Mughal-e-Azam」に関する伝説をいくつかピックアップして掲載しておく。
- 映画公開1週間前、ムンバイーの映画館マラーター・マンディルの予約が開始されたとき、窓口には10万人の人が詰め掛けた。1.5ルピーのチケットを買うために2kmの列ができ、ブラックマーケットではチケットの値段は100ルピーまで跳ね上がった。
- 1960年、マラーター・マンディルでプレミア上映されたとき、中に入れたのはシャーヒー・ファルマーン、つまり皇帝からの招待状が届いた者のみだった。シャーヒー・ファルマーンは赤いベルベットにウルドゥー語で書かれ、アクバルナーマー(アクバルの名の入った印章)の封印がしてあった。
- 1960年、マラーター・マンディルで公開されたとき、封切前に7週間先まで席は完売していた。映画は3年間連続で公開され続けるという前代未聞のロングヒットを記録し、この記録は44年間破られていない。
- 映画公開時、マラーター・マンディルには12mの高さのプリトヴィーラージ・カプール(アクバル)の立て看板が立てられた。
- 映画公開時、マラーター・マンディルの隣では映画撮影で使われた小道具が展示された。その後、展示物はムンバイーのジャハーンギール美術館に移された。
- 公開当時の興行収入は3,000万ルピーで、現在までの歳入額は30~50億ルピーにのぼる。
- 当初、アナールカリー役はナルギス(サンジャイ・ダットの母親)、サリーム役はチャンドラモーハン、アクバル役はサプルーが演じることになっていた。
- 当時、ディリープ・クマールとマドゥバーラーは本当の恋人同士だった。
- 映画の台本はウルドゥー語で書かれていた。
- 戦争シーンでは、インド陸軍ジャイプル連隊の2,000頭のラクダ、4,000頭の馬、8,000人の兵士が、国防省からの特別許可の下に集められた。
- ムガル朝の王宮のセットは、150人の大工、装飾師、画家たちにより10ヶ月以上の歳月を費やされて完成した。
- 「Mughal-e-Azam」のセットや衣装を作るため、インド各地から職人たちが集められた。アクバルとサリームの衣装を仕立てるため、デリーからは仕立て屋が、アナールカリーの装飾品を作るためにハイダラーバードから金細工師が、王冠を作るためにコーラープルから銀細工職人が、剣、盾、槍、ダガー、鎧などの武器を作るためにラージャスターン州から鉄細工師が、衣装に刺繍を入れるためにスーラトからデザイナーが、足具を作るためにアーグラーから足具職人が呼ばれた。
- マドゥバーラーが身に付けた鉄の鎖は本物で、おかげで彼女は迫真の演技をすることができたが、その代わり彼女は本物の鉄の鎖によってできた擦り傷を治療するため数日間入院しなければならなかった。
- 映画中使われた金のクリシュナ像は本当の純金でできていた。
- ジョーダーが着ていたサーリーは、ハイダラーバードのサーラールジャング博物館から借りたものだった。
- 信じられないことに、「Mughal-e-Azam」はその年のフィルムフェア賞を逃した。そのとき映画賞に輝いたのは、シャンカル・ジャイキシャン監督の「Dil Apna Aur Preet Parayee」(1960年)だった。
- シーシュ・マハル(鏡の間)でアナールカリーが踊るミュージカル「Pyar Kiya To Darna Kya」だけに150万ルピーが費やされた。当時は100万ルピー以下で1本の映画ができていた。この「Pyar Kiya To Darn a Kya」は、インド映画史上最高のミュージカルのひとつとされている。当時は録音技術が発達しておらず、ラター・マンゲーシュカルはエコー効果を出すために風呂場で歌った。また、音楽監督のナウシャードは、作詞家のシャキールに105回も歌詞を書き直させた。
- ミュージカル「Ae Mohabbat Zindabad…」では、100人のコーラスが使われた。
- 1976年、ドゥールダルシャンがアムリトサルで初めて「Mughal-e-Azam」をTV放送したことがあった。パーキスターンのラホールにはアムリトサルからのTV電波が届いたため、パーキスターン人たちはこぞってラホールに駆けつけた。カラーチーからラホールへ行く飛行機は15日間予約でいっぱいになり、ラホール中のTVは全て品切れとなった。ラホールでは250万人の人々が「Mughal-e-Azam」をTVで見た。