インド映画界の新しい潮流に、ヒングリッシュ映画なるものがある。ヒングリッシュとは「ヒンディー+イングリッシュ」の造語で、一般に英語の混じったヒンディー語や、インド訛りの英語のことを指すが、ヒングリッシュ映画と言った場合は、インド製英語映画のことだと思ってもらってよい。その走りとなったのが、デーヴ・ベーネーガル監督の「English, August」(1994年)と、ナーゲーシュ・ククヌール監督の「Hyderabad Blues」(1998年)である。僕は両方とも見たことがないのだが、ヒングリッシュ映画を知る上では欠かせない2本だと言える。その内の1本、「Hyderabad Blues」の続編が2004年7月2日から映画館で上映されている。今日はPVRアヌパム4で「Hyderabad Blues 2」を観た。
ハイダラーバードとはアーンドラ・プラデーシュ州の州都となっている街のことで、18世紀初め~20世紀半ばにはハイダラーバード藩王国の王都として栄えた。テルグ語圏のアーンドラ・プラデーシュ州の州都でありながら、住民の多くはヒンディー語の方言であるダッキニー語を話す。よって、ハイダラーバードを舞台とする「Hyderabad Blues」シリーズの言語は、英語、ヒンディー語、テルグ語の3言語混交となっている。ちなみにテルグ語には字幕が付く。
「Hyderabad Blues 2」の監督と主演はナーゲーシュ・ククヌール。キャストはヴィクラム・イナームダル、イラーヒー・ヒプトゥーラー、ジョーティ・ドーグラー、ティスカ・チョープラーなど。前作では、アメリカで12年間の歳月を過ごし、すっかりアメリカ人気取りになってしまったインド人ヴァルンが、故郷ハイダラーバードに戻り、インド人女性アシュヴィニーと恋に落ちて結婚するまでが描かれた。続編では、結婚から6年が経った後のヴァルンとアシュヴィニーの結婚生活が主題となっている。副題は「Rearranged Marrage(再お見合い結婚)」。
ヴァルン(ナーゲーシュ・ククヌール)はコールセンターを経営し、美しい妻を持ち、裕福な生活をしていた。しかし子供がいなかった。妻のアシュヴィニー(ジョーティ・ドーグラー)は子供を熱望していたが、ヴァルンは「まだ責任が持てない」と言ってなかなか子供を作ろうとしなかった。一方、友人のサンジーヴ(ヴィクラム・イナームダル)とスィーマー(イラーヒー・ヒプトゥーラー)夫婦には子どもが2人おり、子育てに奮闘しながらも幸せそうな生活を送っていた。また、スィーマーは結婚斡旋業を始めた。 ある日、ヴァルンの会社にメーナカー(ティスカ・チョープラー)というやり手の女性が入社する。メーナカーは会社に競争の原理を持ち込んで売上アップを目指すと共に、ヴァルンを誘惑する。ヴァルンは何とかそれを拒否するが、その様子をセクハラ容疑で首にした部下に見られてしまう。部下はアシュヴィニーにそのことを告げ口し、夫婦仲は一気に険悪になってしまう。 ヴァルンとアシュヴィニーのケンカは、彼の両親の古風な考えのおかげでさらにこじれ、とうとう離婚にまで発展してしまう。アシュヴィニーと離婚したヴァルンは、失意のままアメリカに帰ることを決意する。サンジーヴとスィーマーは必死に2人を説得するが効き目はなく、とうとうヴァルンは空港へ去って行ってしまう。 スィーマーの斡旋によりゴールインしたカップルたちの結婚式の日、アシュヴィニーは自分の過ちを悟り、ヴァルンを連れ戻しにアメリカへ発つことを決意する。しかしスィーマーは彼女を制止する。「そんな遠くへ行く必要はないわ。」振り返ると、そこにはヴァルンがいた。実はサンジーヴのドジのおかげでヴァルンはアメリカへ行けなかったのだ。アシュヴィニーはヴァルンに謝り、改めて「私と結婚して下さい」とプロポーズをする。
非常にピュアな映画だと感じた。前半では、子供が欲しくない夫と子供が欲しい妻の葛藤が描かれ、後半では夫婦喧嘩から離婚へ、また再婚へ、の過程が描かれる。登場人物の感情表現に一切ひねりはなく、韓国映画のようにストレートな映画だった。テーマは少し重いが、ユーモアを交えて描写されていた。
この映画でユニークかつ重要な部分は、離婚が主題となった後半よりもむしろ前半で、「結婚したらどうして子供を作らなければならないのか」というヴァルンの問いかけが全てを物語っているだろう。友人のサンジーヴは「祖父がして、親父がした通り、オレも子供を作っただけさ」と答えるが、ヴァルンには納得できない。遂には赤ん坊の大群に埋もれる悪夢にうなされるまでになってしまう。その後、不倫問題や離婚騒動などでその問いかけは埋もれてしまい、とうとう映画中でその答えが提示される機会はなくなってしまう。結局、「そうなっているから、そうするしかない」というサンジーヴの場当たり的な考えが一番正しいことになってしまう。だが、今まで結婚後に子供を作ることの必然性をテーマにした映画はあまりない。ヴァルンの態度は、男の本音がものすごく正直に出されていたように思われる。もう少しこの部分を突き詰めて行けば、もっとユニークな映画になっただろう。
さらに映画の問題点を挙げるとすれば、セリフ回しが不自然で、ストーリー展開がスローテンポなことである。登場人物の英語はどれもインド訛りで、不必要なまでに英語で会話がなされていたので、僕にはものすごい不自然に思えた。また、特に前半の展開は遅すぎる上に、山場がない。ストーリーのキーパーソンとなるメーナカーの性格が曖昧だったのも残念だ。これらのことを考え合わせたら、この映画は絶対に一般受けしないことは明らかで、しかもヒングリッシュ映画のターゲットであるアッパーミドル~上流層にも受け容れられる可能性は低いと思われる。ただ、案外中年の女性あたりの共感を呼ぶテーマの映画かもしれないと感じた。
俳優はどれも素人っぽかった。監督兼主役のナーゲーシュはまだいいとしても、他のキャストはまず顔が一般人であり、演技も演劇クラブ程度のものだった。特にアシュヴィニーを演じたジョーティ・ドーグラーは、あまりスクリーン向けの顔ではないと思うのだが・・・。かえって脇役を演じたイラーヒー・ヒプトゥーラーやヴィクラム・イナームダルの方が生き生きとした演技をしていた。
言語は上記の通り、英語、ヒンディー語、テルグ語の3言語混交体制。とは言っても、これらの言語が文字通りごちゃ混ぜになっているわけではなく、主な会話は英語で、ちょっとしたフレーズはヒンディー語(ダッキニー語)で、そしてヴァルンの両親との会話はテルグ語で、という風に使い分けがなされていた。
映画中、ハイダラーバード名物チャール・ミーナールやビリヤーニーなどを歌った歌が挿入されていたが、映画の背景からはそこがハイダラーバードであるという印象はあまり受けなかった。ハイダラーバードとスィカンダラーバードの間にある人造湖フサイン・サーガルは出ていたかもしれない。
前作を観ていないので何とも言えないのだが、名作と言われる「Hyderabad Blues」に比べたら、どうしても完成度は低くなってしまっていると思われる。しかし、インド映画で続編物というのは実は珍しいので、それだけで希少価値のある映画かもしれない。