Pyaasa

5.0
Pyaasa
「Pyaasa」

 1957年2月22日公開の「Pyaasa(渇き)」は、今日までもっとも偉大なインド映画のひとつとして愛され尊敬され続けている傑作中の傑作である。監督はグル・ダット。盟友デーヴ・アーナンドとのコンビでボンベイ映画業界に映画監督としての基盤を築いたダット監督は、円熟期にこの作品を撮った。高尚な文学性と商業映画の娯楽性を見事に融合させてヒットさせ、後世のインド映画の作りに多大な影響を与えた。

 ダット監督はディリープ・クマールを主演の第一候補にしていたようだが、断られたため、自分自身が主演を務めることにしたとされる。他に、マーラー・スィナー、ワヒーダー・レヘマーン、レヘマーン、ジョニー・ウォーカー、リーラー・ミシュラー、クムクム、ムールチャンド、シャーム・カプール、メヘムード、トゥン・トゥンなどが出演している。

 往年の名女優に数えられるワヒーダーは「Pyaasa」ではセカンドヒロイン扱いで、ファーストヒロインはマーラー・スィナーになっている。ワヒーダーにとって「Pyaasa」は出世作となり、この後、時の人になっていく。

 脚本はアブラール・アルヴィー。音楽はSDブルマン、作詞はサーヒル・ルディヤーンヴィー。プレイバックシンガーはギーター・ダット、ムハンマド・ラフィー、ヘーマント・クマールだが、この内ギーターはダット監督の妻であり、撮影時には既に結婚していた。「Pyaasa」は映画自体も高い評価を受けているが、挿入歌も後世に残る名曲揃いである。

 カルカッタ在住の貧しい詩人ヴィジャイ(グル・ダット)は、自分の詩集を出版しようと奔走していた。長らく家には帰っておらず、母親(リーラー・ミシュラー)は心配していたが、彼の2人の兄はヴィジャイを穀潰し扱いしていた。父親は既に亡くなっていた。ヴィジャイには、大学時代にミーナー(マーラー・スィナー)という恋人がいたが、人生の落伍者に成り果てた今、彼女と顔を合わせる勇気もなかった。

 家に置いてあったヴィジャイの詩の原稿は廃品回収屋に二束三文で売り飛ばされる。ヴィジャイはそれを取り戻そうとするが、既にその原稿は誰かに買われてしまった後だった。ヴィジャイは公園で、彼の作った詩を歌う女性を見掛け後を付ける。それはグラーブ(ワヒーダー・レヘマーン)という娼婦だった。グラーブは詩を通してヴィジャイを知り、彼と親交を深め、やがて恋心を抱くようになる。だが、ヴィジャイの心は常にミーナーと共にあった。

 公園で大学時代のクラスメイト、プシュプラター(トゥン・トゥン)と偶然出会い、同窓会に誘われる。ヴィジャイはそこで詩を歌い、出席していたゴーシュ(レヘマーン)の目に留まる。ゴーシュは出版社の社長をしていた。ヴィジャイは詩集の出版を期待してゴーシュを訪ねるが、彼は詩集を脇に置き、彼を社員として雇い入れる。あるときヴィジャイはゴーシュからホームパーティーに呼ばれる。そこでヴィジャイは、ミーナーがゴーシュの妻になっていることを初めて知る。

 母親の死をきっかけにヴィジャイは酒に溺れるようになる。ある晩、彼は寒さで震えていた乞食にジャケットを恵んでやるが、その乞食が列車にひかれて死に、新聞では「若き詩人ヴィジャイが事故死」と報道された。グラーブはヴィジャイの詩の原稿をゴーシュの出版社に持ち込み、出版を持ちかける。死んだことでヴィジャイの名前は有名になり、彼の詩集「Parchhaiyan(影)」も飛ぶように売れた。

 一方、ヴィジャイは病院で長らく放心状態にあった。そのため、身元不明のまま入院していた。だが、看護婦が「Parchhaiyan」を朗読したことで意識を取り戻し、自分はヴィジャイだと言い出す。医者はそれを信じず、頭がおかしくなってしまったと考え、ヴィジャイを精神病院に入れる。ゴーシュは、ヴィジャイが死んでいた方が都合がいいため、ヴィジャイの親友シャーム(シャーム・カプール)や兄弟と結託して、身元の識別をしないようにする。だが、ヴィジャイは知己のマッサージ屋アブドゥル・サッタール(ジョニー・ウォーカー)のおかげで精神病院を抜け出すことに成功する。

 ちょうどヴィジャイの「死」から1年が過ぎ去っていた。ホールではヴィジャイの一周忌を祝う行事が行われていた。ヴィジャイはそこでゴーシュが自分を追悼するスピーチをしているのを目にする。ヴィジャイは詩を歌い出すが、群衆がパニックになり、ヴィジャイも巻き込まれる。だが、その混乱の中で別の出版社を経営するシェークに拾われたヴィジャイは、寝返ったシャームや兄たちに担ぎ上げられ、再びホールでスピーチをすることになる。だが、そこでヴィジャイは「私はあのヴィジャイではない」と宣言し、再びパニックを引き起こす。

 混乱から脱出したヴィジャイは、グラーブの家を訪ね、彼女を連れて別の場所へ旅立つ。

 物語が始まって最初に感じるのは、主人公ヴィジャイの渇望感だ。ヴィジャイは大学を卒業し当時のインド社会では高学歴者であったが、詩作好きが高じて詩人を志した。仲間内では彼の詩才は高く評価されていたが、世間の風は厳しく、なかなか成功できずにその日暮らしの貧しい生活を送っていた。現代でも詩で食っていくのは至難の業だが、当時から詩人を志すのは「狂気」を意味していたようだ。まるで亡霊のようにヴィジャイは詩集の出版を求めて街をさまよっていた。ヴィジャイは、金にも飢えていたが、何より成功に飢えていた。

 ヴィジャイの比較対象として配置されているキャラクターが何人かいる。まずはゴーシュである。出版社を経営し、裕福な生活を送っていた。次にゴーシュの妻ミーナーだ。かつてヴィジャイの恋人だったが、うだつの上がらないヴィジャイを捨て、裕福なゴーシュとの結婚を選んだ。そして大学時代の親友シャーム。何の仕事をしているのか分からなかったが、生活に困っている様子はなく、花の独身貴族生活を楽しんでいた。一見すると彼らは成功しているかのように見えた。つまり、何の渇望感もない人生を送っているように見えた。

 一方、ヴィジャイと同じ渇望感を抱いている人物として配置されていたのが娼婦のグラーブだ。彼女は身体を売って生計を立てていたが、詩好きであり、ヴィジャイの詩才をいち早く見抜いた人物でもあった。彼女は人並みの尊敬に飢えていた。娼婦である彼女は社会の中で決して敬意を持って扱われなかったのである。そういう意味では、詩を売り歩く詩人も身体を売り歩く娼婦も同列の存在であった。

 ヴィジャイは、物語が始まる前にも多くの不幸に直面してきたと思われるが、物語が始まった後も、自分の詩が認められない悔しさ、今でも思いを寄せる元恋人の結婚、そして母親の死など、多くの不幸を経験する。だが、彼の人生の大きな転機となったのは、皮肉にも彼の「死」であった。たまたま彼のジャケットを着た乞食が列車事故で死んだことで、彼の「死」が報道され、世間の注目を集めたのである。そして、商売上手なゴーシュは、その注目を最大限に活かし、グラーブから受け取ったヴィジャイの詩の原稿を出版し、ベストセラーにする。生きている内には富も名誉も得られなかったヴィジャイは、「死」の後に全てを手にするのである。だが、ヴィジャイは死んでいなかった。

 世の中には、生前全く認められず、死後になって急に有名になる作家や芸術家が少なくない。その成功を生前に味わえていたらどんなに良かったことか。だが、ヴィジャイに関しては、死後の成功を生きながらにして体験する機会に恵まれた。ヴィジャイは詩によって息を吹き返し、自分の成功を目の当たりにするのである。だが、これすらも彼にとっては次なる不幸となった。

 まず、ヴィジャイは精神異常者として扱われた。ヴィジャイは既に死んだというのは世間一般の常識であり、いくらヴィジャイを名乗っても信じてもらえなかった。とうとうヴィジャイは精神病院に放り込まれてしまう。さらに、ヴィジャイの身元をヴィジャイだと特定する人物が現れなかった。ゴーシュ、シャーム、そして2人の兄など、ヴィジャイを見てヴィジャイだと証言できる人物はいた。だが、彼らはヴィジャイが死んでいた方が利益になる人々であり、身元確認で彼であることを否定した。ヴィジャイは、家族や友人の裏切りを知るという、死よりも酷い仕打ちを受けるのである。

 前半までは主にヴィジャイの個人的な苦悩を描いており、ヴィジャイ自身も自分の失敗を自分に起因するものだと考えていたと思われる。だが、不幸に次ぐ不幸を経験したヴィジャイは覚醒し、自分の失敗を社会全体のものだと喝破する。ヴィジャイのその心情は、「Jinhe Naaz Hai Hind Par」の「インドを誇りに思う者はどこだ」という歌詞や、「Ye Duniya Agar Mil Bhi Jaye」の「この世界が手に入るとしても何になる」という歌詞で表現されている。

 ここにきて観客は、題名になっている「渇き」とは、ヴィジャイの抱える渇望感ではなく、欺瞞と虚栄に満ちた社会全体を覆う「魂の渇望感」であることを理解する。恵まれない詩人の目を通して痛烈な社会風刺をした作品が「Pyaasa」なのである。独立から10年が経ったが、植民地時代から一向に改善されないばかりかより悪化している社会に対する幻滅が込められているともいえる。

 女性の描き方にも注目したい。「Pyaasa」にはミーナーとグラーブという2人の女性が登場する。インド映画では「レディー(淑女)」と「ヴァンプ(悪女)」という対照的な女性像が提示され、後者が敗北し前者がヒーローの心を射止めるという展開になることが多い。だが、「Pyaasa」のミーナーとグラーブはそう単純ではない。ミーナーは実業家と結婚し裕福な生活を送るレディーだが、愛を捨てて富を取る選択をした女性である。そのため、経済的には満たされていたが精神的には満たされていなかった。一方、グラーブは娼婦である。どのような経緯で娼婦になったのかは分からないが、かなり経験を積んだ娼婦であることは登場シーンでのヴィジャイの誘い方からも察することができる。だが、詩を理解し、ヴィジャイに対する純粋な愛情を抱いていた。ヴィジャイの詩集が出版されたのも彼女が出版社に働き掛けたからだった。つまり、彼女は「アゲマン」的な存在でもあった。そして、最後に彼と一緒になるのは、ミーナーではなくグラーブの方だった。よって、「Pyaasa」における2人のヒロインにはねじれが観察される。レディーがヴァンプ化し、ヴァンプがレディー化するのだ。この時代には斬新な設定だったのではなかろうか。

 主人公が詩人ということもあって、多くの詩が朗読され歌われる映画である。インドでは詩と歌の間に確固たる境界線はなく、詩は歌われるのが基本だ。だから、ヴィジャイが詩にメロディーを付けて歌うのもインド社会では普通のことである。そして、その詩がそのときのヴィジャイの心や状況をピタリと言い当て増幅するものになっており、ストーリーとの親和性が保たれている。「Jaane Woh Kaise Log」ではヴィジャイがミーナーとの失恋について歌い、「Aaj Sajan Mohe Ang Lagalo」ではグラーブの心情を代弁する。それらストーリーを盛り上げる曲に加えて、「Jaane Kya Tune Kahi」、「Sar Jo Tera Chakraye」、「Peechhe Peechhe Duniya Aage Aage Hum」など、ストーリーとの関連性は低いが単体でキャッチーな曲もあり、完璧な構成である。そして、「Pyaasa」の挿入歌の大半は名曲として半世紀以上に渡って口ずさまれ続けている。

 監督としてのグル・ダットも素晴らしいが、俳優としても不遇の詩人ヴィジャイの悲しみを存分に表現していた。ミーナー役のマーラー・スィナーも良かったが、やはりグラーブ役のワヒーダー・レヘマーンには格別な輝きがある。サッタール役のジョニー・ウォーカーも、単なるコミックロールに留まらず、ヴィジャイを精神病院から逃がす重要な役割を果たしていた。

 「Pyaasa」は、インド映画史に残る傑作中の傑作であり、巨匠グル・ダットの最高傑作に数えられる作品でもある。後世のインド映画に与えた影響は絶大であり、現在のインド映画の特徴を作り上げた作品のひとつといっても過言ではないほどだ。名女優ワヒーダー・レヘマーンの本格デビュー作という点も無視できない。あらゆる意味で必見の映画である。


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