Woman

3.0
Aurat
「Aurat」

 メヘブーブ・カーン監督の「Woman」は、インド映画史に燦然と輝く不朽の名作として誉れ高い「Mother India」(1957年)の元ネタとしてよく知られる作品だ。インド独立前の映画で、記録では1940年5月10日に公開とされているが定かではない。「Aurat(女)」というヒンディー語の題名の方が有名だが、公開時はインドがまだ英国の支配下にあったこともあってか、英題の方が先に来ている。よって、本ブログでも英題を優先することにする。

 メヘブーブ・カーン監督は、インド映画の礎を築いた功労者の一人アルデシール・イーラーニーの下で働き出し、やがて映画監督として頭角を現した。そして、独立前後に渡って監督およびプロデューサーとして数々の作品を送り出し続けた。「Woman」は、彼のフィルモグラフィーの中でも初期の作品に位置づけられる。

 音楽はアニル・ビシュワース、作詞はサフダル・アー。メインキャストは、スレーンドラ、サルダール・アクタル、ヤクーブの3人。スレーンドラは独立前のインド映画界に多かった歌も歌える俳優であった。サルダールはスタント女優としてキャリアをスタートさせ、女優として大成して後にメヘブーブ・カーン監督と結婚した。ヤクーブは元祖キャラクター俳優の一人であり、特に道化役や悪役で人気を博した。他に、アルーン、ジョーティ、カナイヤーラール、ヴァトサラー・クムテーカル、スナーリニー、ブリジラーニーなどが出演している。

 筋書きは「Mother India」とよく似ている。もっといえば、そっくりだ。夫が出奔し、女手ひとつで子供たちを育て、子供の内の一人が家出して盗賊になり、そして最後に自らの手でその子を撃ち殺すという物語である。だが、3時間近くある「Mother India」に比べたら30分ほど短く、ストーリーは早送りになっている。時代が古いこともあって技術的にもどうしても未熟で、「Mother India」よりも「Woman」の方が優れているという声はほとんど聞かれない。

 農村に住む貧しい農民シャームー(アルーン)はラーダー(サルダール・アクタル)と結婚し、二人の間には3人の子供が生まれる。だが、シャームーは財政的に困窮し、高利貸しのスキー(カナイヤーラール)から借りた借金の返済もできずにいた。スキーは土地を売るように強要し、ラーダーにも目を付けていた。あるときシャームーはストレスに耐えられなくなり出奔して行方不明になる。

 後に残されたラーダーは女手ひとつで3人の子供と老いた義母スンダル(スナーリニー)を養おうとする。だが、スンダルと子供の一人を相次いで失う。ラーダーは切羽詰まってスキーに頼ろうとするが、そのとき嵐がやって来てスキーの家が崩壊する。ラーダーはスキーを助け、命の恩人となる。

 それから月日が流れ、ラーダーの2人の子供は成長する。長男のラームー(スレーンドラ)は頼もしい若者に育ち、ジャムナー(ジョーティ)と結婚する。一方、次男のビルジュー(ヤクーブ)は賭博に明け暮れるゴロツキになり、ラーダーの親友カムラー(ヴァトサラー・クムテーカル)の娘トゥルスィー(ブリジラーニー)に付きまとうようになった。あるときビルジューはジャムナーの腕輪を盗んでトゥルスィーに贈る。それが発覚して責められたビルジューは家出をし、やがて強盗になる。

 ビルジューはスキーの家に押し入り、彼を殺して金品を強奪する。村人たちはビルジューの横暴の責任をラーダーになすりつけ、彼女とその家族を村八分する。ラームーはビルジューに会いに行き、帰って来るように言うが、ビルジューは聞かなかった。

 トゥルスィーの結婚式が行われることになった。ラーダーは参加を遠慮していたが、カムラーにせがまれて出席する。そこへビルジューが押し入りトゥルスィーを誘拐する。ラーダーは村人たちにカムラーを連れ戻すと約束し後を追う。ラーダーはビルジューに追いすがり、彼が落とした銃を拾って撃つ。ビルジューは死ぬ前にトゥルスィーをラーダーに引き渡し、彼女の懐で見守られながら息を引き取る。

 農村に住む一人の女性が人生の荒波に翻弄されながらも力強く生きていく姿を描いた作品である。主人公ラーダーにはありとあらゆる不幸が襲い掛かる。借金、夫の出奔、義母の死、干魃と飢え、子供の死などなどである。ラーダー自身は何の過ちも犯していなかった。だが、残酷な運命は彼女の支えとなる存在を奪いながら彼女を追い込んでいく。その多くは封建社会や男尊女卑社会の構造そのものだ。ラーダーと不幸を分かち合い支え合う存在であるはずの夫シャームーは、不幸に耐えきれなくなると腹いせにラーダーに暴力を振るうようになり、限界に達すると身勝手なことに姿をくらまして逃亡してしまう。そして二度と帰って来ない。高利貸しのスキーはラーダーの一家を借金漬けにし、土地を奪おうとするばかりか、若く美しいラーダーの身体に目を付ける。彼女を保護してくれる存在を失い、彼女自身があらゆる場面で矢面に立って子供たちを守らなければならない立場に立ったとき、彼女だけは逃げず、諦めず、ひたすら耐え続け、子供たちを育て上げた。だが、次男のビルジューは成長して賭博にはまってしまい、それが入口になって悪の道に走り、挙げ句の果てに盗賊となる。ラーダーは最後に村人たちとの約束を守るため彼を撃ち殺さざるをえなくなる。

 ラーダーの人生にフォーカスすると不幸な物語になるが、それだけではなく、農村の牧歌的な風景、村一丸となってホーリー祭を祝う様子、そして若いラームーとジャムナーの睦み合いなどが歌と踊りを交えながら陽気に描かれており、そういうシーンがあることで心が軽くなる。それに冒頭には砂塵を巻き上げて行われる迫力の牛車レースもあり、観客を一気に引き込もうという工夫も感じられる。これらのさまざまな描写を通して、人生にはさまざまな色や味わいがあることが強調されている。

 「Mother India」と共通して問題となるのは、やはり最後にラーダーが次男ビルジューを撃ち殺す場面であろう。ここから何を読み解けばいいのか。「Woman」ではラーダーは、ビルジューが親友の娘で結婚式を挙げていたトゥルスィーを誘拐して逃げたところで、村人たちに「必ずトゥルスィーを取り戻す」と約束して、彼の後を追う。そして馬に乗ってトゥルスィーを連れて行こうとするビルジューに追いすがり、「一人の女性がした約束」を強調して、トゥルスィーを返すように命令する。それでもビルジューが逃げ出そうとしたため、ラーダーは彼の背後から撃つ。撃たれたビルジューはトゥルスィーを母親の元に運び、彼女の懐の中で息を引き取る。

 どんな母親であっても、息子を自ら殺めるという選択肢はもっとも最後のものである。だが、約束をしたからには守らなければならない。だから彼女はビルジューを撃った。ビルジューも息子として、母親がした約束を守らせることが義務になった。彼は撃たれ、それを当然のものとして受け入れて、最期にせめてもの甘えとして、母親に見守られながら死ぬ特権を行使する。その後、ラーダーは神様に約束を守ったことを訴え、今後はインドの女性たちが守られるように願う。そのまま絶命したのかは分からないが、その後彼女はまるで村の女性たちの守り神のようになる。

 「Mother India」では「母親」としての使命がより強調されていたが、「Woman」ではもっと広範に「女性」としての生き様に焦点が当てられていたように感じる。村八分になったラーダーが村を出なかったのも、出奔した夫がいつか帰ってくるかもしれないからであり、それは「妻」としての意地であった。ビルジューに誘拐されたトゥルスィーを助け出すことを誓ったのも、人生の晴れ舞台に立ちこれから新しい生活を始めようとする女性の尊厳を力尽くで奪おうとする息子が「女性」として許せなかったからだ。ラーダーが構えた銃から発射された弾丸には、「母親」よりも「女性」としての念がこもっていた。そういう意味で「Woman」なのだろう。

 運命に翻弄される女性を描いた物語は、19世紀末から20世紀前半にかけて、文学の世界でも大いに流行した。ヒンディー語文学界で「物語の帝王」と呼ばれる作家プレームチャンド(1880-1936年)の長編小説にもそのような作品が少なくない。「Woman」からはそれと同じ匂いを感じてならない。

 インドでも1930年代にはトーキー映画が一気に普及し、1940年公開の「Woman」も完全にトーキー化されている。ただ、キャプションの入り方に多少無声映画時代の名残が感じられ、それは英語、ヒンディー語(デーヴァナーガリー文字)、ウルドゥー語(ウルドゥー文字)の3言語で書かれていた。

 「Woman」は、「Aurat」として、また、「Mother India」の原型として知られる、メヘブーブ・カーン監督の初期の作品だ。いくら元ネタだからといって、まだまだ荒削りであり、「Mother India」よりも洗練されていることはない。だが、「Mother India」と比較するといろいろ面白い議論ができそうだ。「Mother India」と合わせて鑑賞するのが正解であろう。