
2018年9月28日公開のタミル語映画「Pariyerum Perumal」は、カーストを越えた恋愛を描いた社会派ロマンス映画である。批評家から絶賛を受け、興行的にも成功したおかげで、カンナダ語やヒンディー語でリメイクされ、それぞれ「Karki」(2024年)や「Dhadak 2」(2025年)になった。「Dhadak 2」がいい映画だったため、その元ネタと比較したくて、SpaceBoxが販売している日本語字幕付きDVDで「Pariyerum Perumal」を鑑賞した。邦題は「僕の名はパリエルム・ペルマール」になっている。この邦題が示す通り、タミル語の原題は主人公の名前である。
監督は新人のマリ・セルヴァラージ。音楽はサントーシュ・ナーラーヤナン。主演は「Vikram Vedha」(2017年/邦題:ヴィクラムとヴェーダー)に出演のカティルと、「Kayal」(2014年)のアーナンディー。他に、ヨーギー・バーブー、リジェーシュ、スーパーグッド・スブラマニ、ハリ・クリシュナン、シャンムガラージャン、Gマリムトゥ、プー・ラームー、ヴァンナルペッタイ・タンガラージなどが出演している。
2005年。被差別カーストの家に生まれたパリエルム・ペルマール、通称パリヤン(カティル)は、アンベードカル博士のような弁護士になろうとティルネルヴェーリ法科大学に留保制度を使って入学する。英語が苦手だったパリヤンは、同じクラスのジョーティ・マハーラクシュミー、通称ジョー(アーナンディー)に助けてもらう。それがきっかけで二人は仲良くなる。
ジョーはパリヤンを姉の結婚式に招待する。だが、ジョーの父親(Gマリムトゥ)や従兄のシャンカラリンガム(リジェーシュ)は彼女とパリヤンの関係を好ましく思っていなかった。ジョーの父親はパリヤンを呼んで娘との関係を絶つように説得しようとするが、乱入したシャンカラリンガムはパリヤンを殺そうとする。ジョーの父親がシャンカラリンガムを止めたが、パリヤンはショックを受け、以後、ジョーを避けるようになる。
ジョーはパリヤンの豹変に戸惑いながらもその理由を探そうとする。ジョーは奇行を繰り返すようになり、停学寸前になる。一方、シャンカラリンガムのパリヤンに対する嫌がらせは止まらなかった。それだけでは飽き足らず、シャンカラリンガムは、大学を訪れたパリヤンの父親(ヴァンナルペッタイ・タンガラージ)を公衆の面前で侮辱する。
ジョーの父親、叔父、そしてシャンカラリンガムは、不可触民の暗殺を専門とする殺し屋RKラージャー(スーパーグッド・スブラマニ)にプリヤンの暗殺を依頼する。だが、ラージャーはプリヤンの暗殺に失敗して自殺し、プリヤンは様子を見に訪れたジョーの父親を威圧する。
ジョーの父親は改心し、娘と共にプリヤンを訪ねる。そしてシャンカラリンガムにはプリヤンに謝罪をさせる。
一般的にインド人の名前にはアイデンティティーが刻まれており、名前を見るとその人の宗教、カースト、出身地などが予想できる。だが、タミル人は、20世紀前半に始まったドラヴィダ主義運動の影響から、カーストが判別できる姓の使用を止めており、タミル人の名前を見てもそのカーストは分かりづらくなっている。よって、タミル語映画の各登場人物のカーストを判定するためには、名前からではなく、映像的なヒントや会話の端々などから予想をしなければならない。主人公のパリヤンは、BRアンベードカルを敬愛していることや、留保制度を使って大学に入学したことなどから、不可触民であることが分かる。一方、ヒロインのジョーは、ブラーフマンであることが予想される。つまり、「Pariyerum Perumal」は異カースト間の恋愛を描いたロマンス映画ということになる。
ただ、プリヤンは決して理由なく不可触民差別を受けていたわけではなかった。確かに大学での授業内で教授から英語ができないことを馬鹿にされていたが、それはプリヤンが英語を大の苦手としていたからであって、彼が不可触民だから差別されていたわけではなかった。インドの名門大学では授業は英語で行われるのが普通で、英語ができない方がおかしかった。もし彼が流暢な英語を話していれば、教授は決して彼を馬鹿にしなかったであろう。ジョーの従兄シャンカラリンガムは執拗にプリヤンに嫌がらせをするが、これも彼がジョーといちゃついていたからであった。もしプリヤンがジョーと接近していなければ、シャンカラリンガムはプリヤンを気にも掛けていなかったことだろう。
ただ、シャンカラリンガムがプリヤンに対して行う仕打ちは、彼が不可触民であるからこそ、ひどいものになったと断言できる。彼を全く人間扱いしていない。彼を殺すことにも何の躊躇もしていなかった。
物語の軸になるのはプリヤンとジョーの恋愛だが、ジョーが余りにも事件の本質から蚊帳の外に置かれているために、ジョーの存在感が薄かった。まず、なぜジョーがプリヤンをここまで愛するようになったのか、よく分からない。だが、それはここでは突っ込まないことにしておく。問題なのは、プリヤンがジョーを無視し始めてからだ。プリヤンが急にジョーに対して冷たくなったのは、ジョーの家族が彼に対して暴行や脅迫をしたからであったが、プリヤンはジョーにそのことを話さなかった。だから、ジョーは真相を知らないまま思い悩むだけで、それは最後まで続く。映画の結末では、ジョーの父親がプリヤンと和解し、さも丸く収まったかのように見せられていたが、これでプリヤンとジョーが何の障害もなく結ばれるとは、とてもじゃないが、信じられない。何しろブラーフマンと不可触民の結婚なのである。まだいくつもの波乱を乗り越えていかなければならないだろう。もし、これで幸せなその後を匂わせたつもりならば、あまりに楽観的すぎる。
ただ、結末で映画が伝えたかったメッセージは明確だった。インド社会に真の平等をもたらし、不可触民に対する差別が完全に撤廃されるためには、今まで差別をしてきた上位カーストの意識が変わらなければならない。「Pariyerum Perumal」は、不可触民の反乱を描いた映画ではなかった。だが、反乱の兆しは十分に伝わってきた。そうなる前に上位カーストに対し自己変革を求める内容の映画だったといえる。
ジョーの存在が弱かった一方で、プリヤンと死んだ愛犬カルッピの絆はより印象的に描き出されていた。実は犬映画なのではないかと思うほどだ。インドでは犬は下等な生き物とされており、カルッピはプリヤンがインド社会で置かれた地位そのものを象徴している。カルッピは上位カーストのゴロツキの悪辣な悪戯によって列車にひき殺されてしまうが、プリヤンも殺し屋ラージャーによって同じ死に方をするところだった。だが、カルッピの幻影が現れ、彼を窮地から救い出すのである。彼を救ったのは決してジョーではなかった。
「Pariyerum Perumal」のヒンディー語リメイク「Dhadak 2」は、原作の弱点をかなり解消していたと感じた。物語の軸を人間と犬ではなく人間と人間に持って来て、より引き締めることができたのが一番大きい。また、「Dhadak 2」では大学でデモ活動をする学生政治家にかなり重要な役割を与えており、不可触民差別をより強調していた。少なくともロマンス映画としては「Dhadak 2」の方が確実に上である。
「Pariyerum Perumal」の音楽は斬新で引き込むものがある。ただ、ここでもどちらかといえばパリヤンとジョーのロマンスよりも、パリヤンとカルッピの友情の方に重点が置かれている。ラップ調の「Karuppi」や前衛的な映像の「Naan Yaar」など、素晴らしい曲には必ずカルッピが出て来る。やはりこの映画はロマンス映画ではなく犬映画だ。
「Pariyerum Perumal」は、異カースト間恋愛を描くことで不可触民差別を浮き彫りにしようとした意欲的な作品である。ただ、愛犬カルッピの存在感が強すぎて、ヒロインのジョーが脇役に追いやられている。結末も、これで全てが解決したのか疑問の残る終わり方であった。ヒンディー語リメイク「Dhadak 2」は、本筋ほほぼ手つかずでありながら、元ネタよりももっとうまくまとめてあり、比較をすると面白い。