一時期、日本ではインド映画が年に数本、一般公開されるという盛り上がりを見せたことがあったが、そのペースが定着するほどは続かず、最近はだいぶ沈静化しまった。昨年のめぼしい一般公開作品はヒンディー語映画「PK」(2014年)くらいである。むしろ、今まであまり一般公開がなかった、隣国パーキスターンの映画の方に注目が集まっているように見える。2015年に日本で公開された「Song of Lahore」(2015年)は、パーキスターンの音楽家たちを題材にした米国映画だった。それに続き、2017年3月25日に、「娘よ」の邦題と共にパーキスターン映画「Dukhtar」(2014年)が日本で一般公開された。パーキスターン本国での公開日は2014年9月18日である。
「Dukhtar」とは「娘」という意味で、英語の「daughter」と同語源の言葉である。監督は女性で新人のアフィヤー・ナサニエル。クエッタ生まれで現在はニューヨーク在住とのことである。キャストは、サミヤー・ムムターズ、モヒブ・ミルザー、サリーハー・アーリフ、アースィフ・カーン、アジャブ・グル、サミーナー・アハマド、アドナーン・シャー、アブドゥッラー・ジャーン、オマイル・ラーナーなど。
パーキスターン北部の山岳地帯に住む女性アッラーラキー(サミヤー・ムムターズ)は、部族間の争いを調停するために父親のダウラト・カーン(アースィフ・カーン)によって、敵対部族の長で既に老齢のトール・グル(アブドゥッラー・ジャーン)と10歳の年齢で政略結婚させられそうになった娘ザイナブ(サリーハー・アーリフ)を連れて逃げ出す。すぐに追っ手を差し向けられるが、元ムジャーヒディーンのトラック運転手ソハイル(モヒブ・ミルザー)に助けられ、アッラーラキーとザイナブは安全な隠れ家を見つける。 アッラーラキーは、ダウラト・カーンとの結婚後、一度もラホールに住む母親と会えていなかった。追っ手が母親の元にも来ていることは百も承知だったが、ラホールへ行って母親に会うことを決める。ソハイルはラホールまで2人を送り届ける。アッラーラキーはラホールの夜市で母親と再会を果たすが、ダウラト・カーンの弟シェヘバーズ・カーン(アジャブ・グル)に見つかってしまう。ソハイルはシェへバーズを殺すが、流れ弾がアッラーラキーに当たる。アッラーラキーは病院に運ばれる。
実話に基づくストーリーとのことで、パーキスターンのことをよく知らない人が観た場合、「同国ではまだこんな人権侵害が行われているのか、母娘はそこから逃れられてよかった、しかし最後に母親が撃たれてしまい気の毒だ」ぐらいの感想を抱くのであろうか。それはそれでいいだろう。だが、非常に冷めた視点から見れば、かなり外国人受けを意識した作りであることにあざとさを感じた。いかにも先進国の知識層が好みそうな、「後進地域に残る封建的な人権蹂躙からの脱出物語」であり、それに淡い恋の予感、ロードムービー的な要素、そして山岳地帯の美しい風景がミックスされ、映像作品として一応の体裁を保っている。それがあまりに上品にまとまっているものだから、土臭さや人間臭さを感じなかった。
個人的に一番感じたのは、「こんなこと特に映画化するような話ではない」ということである。まず、10歳やそこらの女の子が結婚する、いわゆる幼児婚は、印パでは全く珍しくない。もちろん、インドでは男性は21歳、女性は18歳、パーキスターンでは男女とも16歳が結婚可能年齢と法律で定められており、幼年での結婚を規制しているものの、幼児婚は根強く習慣として残っている。政府やNGOなどの努力によって減って来ているとは思うのだが、こんなことをいちいち映画化していたらキリがない。幼い女の子が老人と結婚させられることも、もしかしたら日本の観客にはショッキングかもしれないが、やはり印パでは稀な話ではなく、何を今更、といった感じだ。今回は政略結婚だが、経済的理由で年の差婚が行われることが一番多いのではなかろうか。
題名が「娘」であるし、アッラーラキーを中心に、祖母、母、娘と、女3代に渡る受難が物語の主軸となっているため、そちら側からの視点で観ることを強要されがちなのだが、敢えてそういう意図を無視し、男性側の視点からこの映画を眺めてみると、どうしても父親のダウラト・カーンの方に同情せざるをえない。ダウラトは、部族間の血で血を洗う争いに終止符を打つべく、娘をトール・グルと結婚させるという苦渋の決断をしたのだ。もちろん、彼も全く乗り気ではなかったが、双方にこれ以上の死者を出し報復合戦が激化するよりはと、最終的に決断をしたのだった。それが、アッラーラキーの勝手な行動により破綻してしまった。アッラーラキーの近視眼的な行動がより多くの死を招き、部族間の対立がより激化する、というのが、今後の自然な成り行きである。
あと、疑問に感じたのは、トラック運転手ソハイルのキャラクターだ。孤児院で生まれ育ち、アフガニスタンに渡ってムジャーヒディーンとなったが、途中で辞めて帰国し、トラックを運転している。こういう人物がたまたまアッラーラキーとザイナブを助けることになる。できすぎた話ではないか。ソハイルは軍事訓練を受けたために銃器の取り扱いに慣れており、それがアッラーラキーらを助ける上で何度か役に立ったし、彼がアッラーラキーらを匿ったのも、どうやらターリバーンの隠れ家のようだ。映画なので、こういうできすぎた話をいちいちあげつらうのは野暮だ。しかし、この映画はともするとターリバーン寄りに見られる恐れがある。ほとんどの映画はテロリストに対して厳しい態度であるが、この映画に限っては、全くそういうところが見られない。それとも、現在のパーキスターンには、ソハイルのような「元々ターリバーンで今では普通に働いている人」が多くいるのだろうか。
また、細かい点だが、ソハイル一人がトラックを運転していたのが気になった。大体、印パのトラック運転手は複数人でトラックを運転している。たまたまソハイル一人だったために母娘を助けることができたが、複数だったらもっと話がややこしくなり、アッラーラキーとザイナブの助かる確率はかなり減ったことだろう。
「娘よ」の中でもうひとつ気になったのは、逃亡中のアッラーラキーとザイナブが全く空腹を感じていなかったことだ。恐怖によって空腹を忘れていた、という説明も可能であろうが、屁理屈の域を出ないだろう。むしろ、飢えと恐怖に苛まれる姿を描いた方が真実味があったはずだ。ターリバーンの隠れ家にたどり着いたところでようやくアッラーラキーが料理をするシーンが出てくる。この映画には、ザイナブの結婚式での食事、ソハイルが「道の駅」で食べる食事、ラホールでソハイルが母娘に食べさせるゴールガッパーなど、食事のシーンがいくつか出てくるために、逃亡中の母娘が全く食事をしていないところが余計変に浮き上がっていた。
文句ばかり書いているが、自分なりに琴線に触れるシーンもいくつかあった。
- ザイナブが母親のアッラーラキーに英語を教えているシーン。きっと、その日学校で習ったことを母親に教えているのだろう。母親はラホール出身であるため、英語を含む初等教育を受けられる環境にいたと思うのだが、それはそれで置いておいて、教育が娘から母に伝播していく様子は、新鮮な驚きがあった。
- ザイナブの結婚が決まり、アッラーラキーが娘に結婚とは何かを説明しようとするシーン。これも非常に良かった。ザイナブは、どうやって子供ができるか知っていると豪語するが、彼女から耳打ちされた「子作りの秘密」は、幼稚なものであった。それを聞いてアッラーラキーは、「やはりまだこの娘に結婚は早い」と思い直し、脱出を決意したのであろう。
- ソハイルがアッラーラキーに腕輪を返すシーン。アッラーラキーは、助けてくれたお礼に、金の腕輪をソハイルに渡そうとする。だが、ソハイルはそれを返し、アッラーラキーの手首にはめる。金属製の腕輪は印パでは既婚女性の象徴のひとつであり、男性がそれを女性にはめる行為は、結婚の成立を意味する可能性がある。少なくともこのとき、ソハイルとアッラーラキーの心が通い合ったと見ていいだろう。
- ロケはフンザ(カリーマーバード)やギルギト、そしてカラーコラム・ハイウェイなどで行われている。8,000m級の山々が立ち並ぶ想像を絶する光景が観る者を圧倒し、この映画を特別なものにしている。ただ、登場人物にその風景を楽しむ心の余裕はない。見慣れているから特に何とも思わない、というのが正解かもしれない。アッラーラキーは、ターリバーンの隠れ家にたどり着いてようやく「きれいな光景ね」とつぶやくが、彼女がそのとき見ている光景は、日本人の目からしたら、想像の範囲内のものだ。
言語は基本的にウルドゥー語だが、舞台となっているギルギト・バルティスターン州の言語らしきものも聞こえてきた。バルティー語もしくはブルシャスキー語であろうか。日本公開作品なので日本語字幕があったが、英語字幕からの翻訳なのか、台詞とかけ離れた字幕になってしまっているものがいくつかあった。
「娘よ」は、パーキスターン山岳地帯に暮らす母娘の悲劇を描いた作品。監督はパーキスターン人女性だが、ニューヨーク在住ということもあって、外国人受けを狙い過ぎのような印象を受けた。是非映画化されなければいけないほど特異な出来事でもない。しかし、適度に緊迫感があり退屈しない映画であるし、フンザやカラーコラム・ハイウェイの圧倒的光景を楽しむ目的でも鑑賞していいだろう。