
「Shiraz」は、1928年9月26日に英国でプレミア公開された白黒の無声映画である。インド映画黎明期の大スター、ヒマーンシュ・ラーイがプロデュースし、自ら主演も務め、インドで活躍したドイツ人映画監督フランツ・オーステンが監督をし、英国人ヘンリー・ハリスが撮影監督を務めるなど、多国籍な顔ぶれである。ニランジャン・パールが書いた同名の戯曲を原作としている。中間字幕の言語は英語である。無声映画ではあるが、映像と同時再生される音楽や効果音が付いていたとされている。
「Shiraz」と聞くと真っ先に思い浮かぶのが、イランの都市シーラーズである。シーラーズはファールス州の州都であり、ペルシア文化の中心地だ。多くの知識人を輩出した古都だが、その中でももっとも有名なのが詩人ハーフィズ・シーラーズィーで、今でも墓が残っている。だが、この映画はシーラーズやハーフィズ・シーラーズィーとは全く無関係である。
題名になっている「シーラーズ」とは、アーグラーにある「世界一美しい建築物」の誉れ高いタージマハルの設計者の名前である。ただし、タージマハルを設計した建築家についての定説はなく、一般的にはウスタード・アハマド・ラーハウリーだとされている。ただ、候補者の中にはウスタード・イーサー・スィーラーズィーという人物もおり、おそらく彼を題材にしたのではないかと思われる。ただし、ウスタード・イーサー・スィーラーズィーの実在を疑問視する見方もある。
「Shiraz」は、タージマハル建設秘話とでも呼ぶべきロマンス映画である。タージマハルにまつわる愛の物語というと、ムガル朝第5代皇帝シャージャハーンとその妃ムムターズ・マハルの恋愛が有名だ。もちろん、映画中にもシャージャハーンとムムターズ・マハルが登場する。だが、「Shiraz」が中心的に描き出すのはシャージャハーンでもムムターズ・マハルでもなく、タージマハルの設計者とされる主人公シーラーズなのである。
シーラーズを演じるのはヒマーンシュ・ラーイ。他に、イーナークシー・ラーマ・ラーオ、チャールー・ロイ、スィーター・デーヴィーなどが出演している。
放浪の陶工は旅の途中で盗賊に略奪されたキャラヴァンの残骸を通りがかり、そこで一人の美しい少女を見つける。陶工は彼女を家に連れ帰り、我が子として育てる。少女はサリーマー(イーナークシー・ラーマ・ラーオ)と名付けられる。陶工にはシーラーズ(ヒマーンシュ・ラーイ)という息子がいた。シーラーズはサリーマーを実の妹のように可愛がり、いつしかその感情は恋情へと変わっていった。
サリーマーの美貌は奴隷商人の目に留まり、彼女は奴隷商人によって誘拐されてしまう。サリーマーはアル・カラブの奴隷市場で売りに出される。アル・カラブまでサリーマーを追って来たシーラーズはそれを止めようとするがかなわなかった。結局、サリーマーはクッラム王子(後のシャージャハーン)の部下カースィム・ナズィールに買われ、王宮に連れて行かれる。クッラム王子(チャールー・ロイ)はサリーマーを気に入り、丁重に後宮に迎え入れる。
将軍の娘ダリヤー(スィーター・デーヴィー)はクッラム王子との結婚を狙っていた。クッラム王子がサリーマーに惚れているとの情報を侍女から受け取ったダリヤーは何とかサリーマーを追い落とそうとする。そのとき、シーラーズがサリーマーを追って王宮の外まで来ていた。侍女は彼の存在を知り、ダリヤーに報告する。ダリヤーは、クッラム王子と父親が留守の間にシーラーズを後宮に忍び込ませ、サリーマーと会わせる。そして、クッラム王子を呼んで、彼と鉢合わせにする。シーラーズとサリーマーは逮捕されてしまう。
シーラーズには死刑が宣告される。ダリヤーは策略の発覚を恐れ、侍女を毒殺しようとする。だが、裏切られた侍女は死ぬ前にクッラム王子にダリヤーの悪事をばらす。ダリヤーは追放刑となり、シーラーズの死刑は中止された。シーラーズはサリーマーと引き合わされるが、サリーマーの愛は既にクッラム王子にあった。失意の中でシーラーズは王宮を後にする。また、サリーマーの所持していたお守りから、彼女がクッラム王子の義母ヌール・ジャハーンの姪アルジュマンド・バーノーであることが分かる。彼女はムムターズ・マハルと名付けられる。クッラム王子とムムターズ・マハルの結婚式が盛大に行われる。
それでもシーラーズはサリーマーに対する愛を忘れることができず、王宮の外から彼女をのぞき見る毎日を送っていた。それから18年後、サリーマーは死んでしまう。悲しむシャージャハーンは彼女のために世界でもっとも美しい墓廟を作ることを決め、国中からその設計を募集する。シーラーズは悲しみのあまり盲人になっていたが、サリーマーに対する愛を形にして応募した。シャージャハーンはシーラーズの設計した建築を気に入り、採用するが、部下に彼の目をつぶすように命令する。だが、既に彼の目は見えなくなっていた。シャージャハーンはシーラーズのサリーマーに対する愛に感服し、共にタージマハルを作り上げようと語りかける。
こうして建築開始から約20年後、タージマハルが完成し、シャージャハーンとシーラーズは二人でそれを眺める。
アルジュマンド・バーノー、後のムムターズ・マハルがシャージャハーンと結婚した経緯や、シーラーズとサリーマーの関係など、全てフィクションだと考えていい。歴史の考証をしていくとおかしな点はいくつか見つかる。たとえばムムターズ・マハルが亡くなったのは当時ムガル帝国の首都で、現在タージマハルが建つアーグラーではなく、現マディヤ・プラデーシュ州のブルハーンプルである。先に述べたとおり、タージマハルの設計者がシーラーズやそれに類する名前の人物だったという証拠もない。よって、タージマハルの設計者がムムターズ・マハルへの愛を形にしたというこの映画の主張も作り話ということになる。それでも、それは映画の評価にほとんど影響を与えない。むしろ、シャージャハーンではなくあえて設計者を主人公にして、タージマハルにまつわる新たな恋物語を作り出したその豊かな想像力と発想力を評価すべきである。
一般的にタージマハルはシャージャハーンとムムターズ・マハルの愛の結晶とされる。シャージャハーンは、絶大な権力を持ち、後宮に多くの女性を抱える皇帝としては珍しく、一人の女性に異常なほどの強い愛情を注ぎ込んだ。彼がムムターズと結婚したときにはまだ彼はクッラム王子であり、皇帝ではなかったが、それでも父親ジャハーンギールから気に入られており、後継者と目されていた。ムムターズ以外にも妻はおり、子供もあったが、ムムターズとの間には14人もの子供を作り、そのうちの7人は成人した。多くの妻をめとり、彼女たちに多くの子供を生ませる権力者は古今東西数知れないが、一人の女性にこれほど多くの子供を生ませた権力者は世界広しといえどシャージャハーンのみなのではなかろうか。それほどまでシャージャハーンはムムターズ一人を愛し続けた。ムムターズの死因も、14人目の子供を生むときの産褥熱であった。ムムターズの死がシャージャハーンに与えたショックは大きく、一晩で髪が全て白髪になってしまったとも言い伝えられている。シャージャハーンが死んだムムターズへの愛を示すために総力を結集して作り上げたのがタージマハルなのである。ムムターズが死ぬ前にシャージャハーンに「世界一美しいお墓を作ってください」と嘆願したという話もある。
もちろん、シャージャハーンとムムターズ・マハルのこの結びつきはインド史が世界に誇るラブストーリーであり、映画の題材としてもってこいだ。だが、「Shiraz」はあえてそこから焦点をずらし、代わりにシャージャハーンではなくタージマハルの設計者シーラーズに焦点を当てた。歴史上、シャージャハーンと結婚したムムターズをシーラーズの結婚相手にすることはできない。よって、シーラーズの恋愛は成就しない。それでも、狂ったようにムムターズを想い続ける気持ちがやがてタージマハルという形になって世に出現し、時の皇帝であるシャージャハーンにも愛でられるという結末は、単なる宮廷モノのロマンス映画よりもよほど深みがある。シャージャハーンのムムターズに対する愛情も度を超したものだったが、シーラーズのムムターズに対する愛情は完全に無私のものであり、もっといえば神聖なものである。「Shiraz」を観ることで、タージマハルがまとうこの世のものとは思えない美しさに妙に納得がいってしまい、もしかしたらこの話は真実なのではないかという錯覚も覚える。それがこの映画の最大の美点である。
ただ、サリーマーの心変わりの早さは少し意外だった。クッラム王子といい仲になったサリーマーは、比較的容易に彼の愛を受け入れてしまう。その後、シーラーズと再会するが、ここでも彼女はそれほど迷わずにシーラーズよりもクッラム王子を選ぶ。冷酷なまでの利己主義である。もっとも、サリーマーは元々そんなにシーラーズに対して恋愛感情を抱いていなかったのかもしれない。サリーマーの出自が分かったことで、シーラーズとサリーマーは釣り合わないことが決定的となり、シーラーズは身を引くしかなくなる。シーラーズがとてもかわいそうだった。
「Shiraz」はアーグラーで撮影が行われている。そればかりか、アーグラーに残るムガル朝時代の遺跡を使ってロケが行われており、衣装も当時のものが再現されていて、白黒映像ではあるが、迫力がある。もちろん実物のタージマハルが登場するし、王宮として使われていたのはアーグラー城やスィカンドラーなどだろうと思われる。いわば本物であり、一番贅沢な撮り方だ。
個人的に気になったのは、シャージャハーン役のチャールー・ロイとサリーマー役のイーナークシー・ラーマ・ラーオが2回、唇を合わせるキスをしていることだ。インドで作られながらも、当時のインドは英国領であるし、英国映画という性格も持っていたため、気にするところではないかもしれないが、時代劇に西洋的なキスを入れるところは現代の感覚とはずれている。
「Shiraz」は、無声映画時代にインドで作られた名作の一本に数えられる作品だ。誰もが知るインドの世界遺産タージマハルにまつわるラブストーリーを、少し違った視点から描き、タージマハルの美しさを引き立てている。傑作である。
ちなみに、この映画は英国映画協会(BFI)によってレストアされ、2017年に公開された。現在、Internet ArchiveやWikipediaなどで鮮明な映像の「Shiraz」レストア版を鑑賞できる。