Maaveeran (Tamil)

3.5
Maaveeran
「Maaveeran」

 2023年7月14日公開のタミル語映画「Maaveeran(偉大なる勇者)」は、貧しい漫画家がスーパーヒーローになって人々を救うというスーパーヒーロー映画である。ただし、自ら困難に立ち向かい敵をなぎ倒す勇敢なヒーローではないところがミソだ。

 監督は「Mandela」(2021年)のマドンネ・アシュウィン。音楽監督はバラト・シャンカル。主演は「Doctor」(2021年)や「Don」(2022年)のシヴァカールティケーヤン。他に、アディティ・シャンカル、サリター、ミスキン、モニーシャー・ブレシー、サウンダララージャ、スニール、ヨーギー・バーブーなどが出演している。また、ヴィジャイ・セートゥパティがナレーションを務めている。

 「Maaveeran」は基本的にタミル語映画だが、テルグ語版も同時製作されており、題名は「Mahaveerudu」となっている。鑑賞したのはタミル語オリジナル版である。

 スラム街に母親イーシュワリー(サリター)や妹ラジー(モニーシャー・ブレシー)と共に住む貧しい漫画家サティヤ(シヴァカールティケーヤン)は、新聞の編集補佐ニーラー(アディティ・シャンカル)と出会ったことがきっかけで新聞への連載を勝ち取る。

 サティヤの家族は再開発によって立ち退きを余儀なくされるが、スラム街の住人たちは高層マンションをあてがわれ、ひとまず満足していた。だが、そのマンションは欠陥建築であり、あちこちがすぐに崩れた。その修復のために呼ばれたのがクマール(ヨーギー・バーブー)であり、壊れたところを直して回っていた。平和主義者で臆病者のサティヤは事を荒立てるのを好まず、マンションの欠陥を管理者に訴えることも避けていた。だが、彼の怒りは連載漫画「Maaveeran(偉大なる勇者)」に注ぎ込まれた。サティヤとニーラーは仲良くなるものの、彼女はサティヤが漫画の中の勇者とは正反対の性格の臆病者であることに気付き幻滅する。サティヤのせいで会社を解雇になった男性からの脅しに屈したサティヤは自ら漫画の連載も辞退する。

 サティヤに幻滅していたのはニーラーだけではなく、彼の母親も同様だった。サティヤは母親の幻滅を知り、自殺しようとし、屋上から飛び降りる。彼は助かったものの、そのときから変な声を聞くようになった。その声は彼をやたらと勇者扱いしていた。まるで彼を漫画の中の勇者だと見なしているかのようだった。その声は、スラム街の住人に欠陥マンションを与えた悪徳大臣ジャヤコーディ(スニール)を悪の親玉として名指ししていた。

 選挙が近づいており、ジャヤコーディ大臣は自らの功績をアピールするためマンションにやって来る。声に悩まされていたサティヤはジャヤコーディ大臣にスリッパを投げてしまい、連行される。だが、選挙があったために殺されず、逆に選挙に利用されることになる。だが、それも声に従っている内にジャヤコーディ大臣の悪行をばらす方向へ向かってしまう。サティヤはジャヤコーディ大臣の部下たちに襲われるが、声に従うことで無敵の強さを発揮することができた。サティヤはマンション住民たちの救世主となる。

 だが、サティヤにジャヤコーディ大臣と戦う気はなかった。声は、人々を救うために自らを犠牲にするとサティヤに語りかけており、それが彼を怖がらせた。サティヤはジャヤコーディ大臣にひたすら謝ろうとし、声も無視する。サティヤは殴られるままとなり、海に捨てられそうになるが、奇跡的に助かる。地上に戻ったサティヤは声が、マンションがもうすぐ崩壊すると語っていたのを思い出し、住民たちを避難させようとする。ジャヤコーディ大臣がやって来て安全を保証するが、彼はマンションで一夜を明かすことを拒否した。再び声が聞こえるようになったサティヤは、ジャヤコーディ大臣の部下たちを倒す。ジャヤコーディ大臣は落下した看板につぶされてしまった。

 マンションの崩壊が始まった。マンションに取り残された少女を救うため、サティヤはマンションの中に入る。そして少女を救い出し、自らは崩壊に巻き込まれる。

 2年後、サティヤは連載漫画家として成功していた。

 インド映画には時々、非暴力主義を掲げて独立を勝ち取った「インドの父」マハートマー・ガーンディーの影響を見出すことができる。主人公サティヤはとにかく争いを避けようとする人物であった。だが、それは非暴力主義によって英国当局に立ち向かったガーンディーの哲学とは相容れない。平和主義と臆病は正反対のものだ。サティヤは完全に臆病者であった。彼の臆病さには、母親やヒロインのニーラーも呆れるほどであった。およそスーパーヒーロー映画の主人公とは思えない設定である。

 だが、そういう性格の人間がスーパーヒーローに生まれ変わるというのがスーパーヒーロー映画の醍醐味でもある。サティヤは落下と衝撃をきっかけに謎の声を聞くようになった。それはあたかも漫画のナレーションのようであり、これから起こることをあらかじめ説明することもあった。その声に従うことでサティヤはスーパーヒーロー的な行動を取ることができるようになった。

 通常のスーパーヒーロー映画では、自らの使命に目覚め、獲得した超能力を使って人助けや世直しを行うものだが、スーパーパワーを得た後もサティヤの臆病さは大して変わらない。声によって打倒すべき相手が分かった後も、悪徳大臣ジャヤコーディに対してペコペコし続ける。だが、彼の意図とは裏腹に彼の行動はジャヤコーディ大臣を窮地に追いつめていき、サティヤは人々から救世主扱いされていく。この時点でこれはコメディータッチのスーパーヒーロー映画であることが分かる。

 だが、ペコペコし続けるスーパーヒーローというのは見ていてこんなにつまらないものかと感じた。確かに彼は意図せずしてジャヤコーディ大臣にダメージを与えていく。それを笑えばいいのだが、なんだか胸がスカッとしない。ようやく意思と力が一致するのは終盤になってからで、そこからは通常のスーパーヒーロー映画になるのだが、それまでの時間は決して心地よいものではなかった。

 サティヤが獲得したスーパーパワーの論理的な説明もされておらず、それがスッキリしないものを残していた。普通に考えるならば、彼は自分の描いた漫画の主人公と同一化したということであろう。だが、果たしてそれは呪術的な手段によるものなのだろうか。燃やされた漫画、雨の雫、血などが混ぜ合わさってサティヤの耳の中に入り込んだような描写があったが、それだけでは何ともいえない。もし精神科学的に説明するならば、自分の創作物に自分が影響されたということだろう。だが、それで敵を次々になぎ倒すようなスーパーパワーまで得られるだろうか。

 スラム街に住む貧困者が漫画で生計を立てようとするという序盤の展開もインドの文脈では信じにくかった。インドでは日本ほど漫画が普及しておらず、漫画家として身を立てようという選択肢は採られにくい。漫画家を目指せるのはむしろ食うに困らない裕福な家庭の子供というイメージがある。

 タミル語映画は伝統的に北インドやヒンディー語に対して反対姿勢を取っている。「Maaveeran」は、タミル語映画にしてはヒンディー語のセリフを聞くことが多かった。ヨーギー・バーブーの演じるクマールは北インド人の振りをして労働者として働いているという設定であったし、マンションの建築労働者は北インド出身という設定であるようだった。ヒンディー語がコメディーに使われている点では多くのタミル語映画と同じだったが、決して悪意は感じなかった。そこに時代の変化を少しだけ感じた。テルグ語映画は北インド人やヒンディー語を寛容に取り込んで汎インド的な成功を収めている。おそらくタミル語映画界もテルグ語映画界の後追いをしようとし始めている。

 「Maaveeran」は、本業は漫画家の弱虫なスーパーヒーローを主人公にした一風変わったスーパーヒーロー映画である。その臆病さがコメディータッチを加えており、通常のスーパーヒーロー映画とは異なる間を提供している。いつまでたっても覚醒しないじれったさもあったが、着想は面白く、楽しく鑑賞できる。おすすめの映画である。