
2023年10月13日公開の「Guthlee Ladoo」は、聡明な不可触民の子供が学校に入学するために奮闘する物語である。映画にはグトリーとラッドゥーという不可触民の子供が2名登場し、それがそのまま題名になっているが、元々の意味は「種」と「団子」という意味である。
監督はイシュラト・R・カーン。「Welcome」(2007年)や「Dream Girl」(2019年)などで助監督を務めてきた人物で、監督は本作が初となる。キャストは、サンジャイ・ミシュラー、スブラト・ダッター、カリヤーニー・ムレー、ダナイ・シェート、ヒート・シャルマー、カンチャン・パガレー、アルチャナー・パテール、アーリフ・シャードーリー、サンジャイ・ソーヌーなどが出演している。
グトリー(ダナイ・シェート)は、清掃人カーストのマングルー(スブラト・ダッター)とラーニヤー(カリヤーニー・ムレー)との間に生まれた少年だった。村にある私立小学校サラスワティー・ヴィディヤーマンディルは上位カーストの子供しか入学を認めておらず、グトリーはこの学校の生徒ではなかったが、相棒のラッドゥー(ヒート・シャルマー)と一緒に学校に忍び込んでは授業を盗み聞きしていた。グトリーは聡明な少年であり、正規の児童よりも授業の内容をよく覚えていた。サラスワティー・ヴィディヤーマンディルのハリシャンカル・ヴァージペーイー校長(サンジャイ・ミシュラー)はグトリーを見つけると追い払っていた。
グトリーは父親に学校で学びたいと懇願する。当初はそれを拒否していたマングルーだったが、下水の掃除中にラッドゥーが事故死したことをきっかけに、子供に同じ人生を送らせることに疑問を感じ始める。また、彼は、不可触民カーストでありながら教育を受けたことで立派な役人になっている人物と知り合い、子供に教育を施す重要性に気付く。マングルーはハリシャンカル校長に直談判に行くが、校長はチャウベー理事長(アーリフ・シャードーリー)に聞いてみると言ってお茶を濁していた。だが、ハリシャンカル校長は次第にグトリーの聡明さに気付き、彼を学校に入れたいと考え始める。そこでマングルーに憲法や教育を受ける権利のことを吹き込む。感化されたマングルーは同じ不可触民と団結して子供たちを入学させるように働き掛けるが、失敗する。
サラスワティー・ヴィッディヤーマンディルで運動会が行われることになった。ハリシャンカル校長はグトリーを競走に参加させ、もし勝ったらチャウベー理事長が無償で彼に教育を受けさせると宣言する。チャウベー理事長はグトリーが絶対に勝てないように細工を施すが、競走でグトリーは勝ってしまう。こうしてグトリーは念願の学校に入学することができた。
「Guthlee Ladoo」の主人公一家は清掃人カーストである。映画の中では時々「バンギー」と呼ばれるが、これは差別語であり、現在では公式の場で使われなくなっている。不可触民差別を強調するためにあえてこの映画で使われたのだと思われる。「ハリジャン」という呼び方もされていたが、これはより広く不可触民全体を指す言葉だ。マハートマー・ガーンディーが提唱したが、言い換えによって差別は解消されることはなかった。
主人公が不可触民というだけでなく、映画全編に渡ってかなりストレートに不可触民差別が描写されている。カースト制度がここまであからさまに主題になるインド映画は少ないが、多少ステレオタイプなきらいもあった。周囲の人々は不可触民に触れようとしないし、もし触れてしまったらすぐに清めようとする。掃除人カーストたちは、下水や便所などを掃除し、わずかな対価を受け取るが、それも踏み倒されたり不当に値切られたりする。そして村外れに建つ、風が吹けば飛んでいってしまいそうな粗末な掘っ立て小屋に住んでいる。もちろん、貧困者である。
不可触民が受ける数々の差別の中でも「Guthlee Ladoo」がもっとも問題視しているのが教育を受ける権利に関わる差別である。社会の下層に置かれている人々にとって、教育は地位向上のための唯一の道である。それにもかかわらず、不可触民の人々は憲法の存在すら知らず、ましてや教育が国民に平等に与えられるべきものであることなど気にも掛けていない。彼らは子供がなるべく早く自分と同じ仕事をして金が稼げるようになることだけを願っており、子供を学校に送る意義を理解しない。結果、不可触民の子供たちは学校に行けず、最下層に取り残されたままで、貧困が再生産される。
2010年に施行された教育を受ける権利(RTE)法は全ての私立学校に対し、1年生の定員の少なくとも25%を社会的・経済的な弱者の子供のための枠とし、彼らに無償で教育をしなければならないと規定されている。「Guthlee Ladoo」に出て来るサラスワティー・ヴィッディヤーマンディルも私立学校であり、本来ならば1年生の1/4はグトリーやラッドゥーのような不可触民の子供たちに宛がわれなければならない。だが、RTE法があるにもかかわらず経営陣はそれを無視し、不可触民の子供を入学させようとしなかった。また、同校には上位カーストの子女が多く、親たちが不可触民の子供たちの入学を拒絶している様子が見て取れた。
グトリーの父親マングルーは憲法や法律の存在を知り、教育は全ての国民に与えられた権利だと理解して、仲間たちと共に運動を開始しようとする。この辺りでこの映画の意図がはっきりしてきたように見えた。国民に広くRTE法の存在を知らしめ、不可触民の子供たちが学校で無償で学べる社会を実現しようとする高尚な映画だと感じた。だが、その予想は裏切られた。憲法や法律にのっとって不可触民の地位を向上させる試みはすぐに頓挫し、最後に示されたのは、なんと運動会の競走に勝って入学と無償の教育を勝ち取ろうとする姿であった。
確かに最後にレースのようなドキドキする展開を持って来ることで映画に娯楽性が生まれ、主人公の勝利でもって映画を終えることで高揚感が生まれる。だが、これではせっかく果敢に踏み込んだ不可触民の教育問題に何の解決も提示できていない。学校で学びたくても学べない不可触民の子供たちはレースで勝てとでもいうのだろうか。そもそも入学と無償教育を賭けたレースなどどの学校でも行われていないだろう。非常にがっかりした終わり方だった。
出演俳優の中ではサンジャイ・ミシュラーの名前がもっとも有名だ。だが、彼の演じたハリシャンカル校長の立ち位置は曖昧で、本心がよく分からない。グトリーを入学させるために率先して行動するような英雄性もない。彼の得意とするコミックロールでもない。サンジャイ・ミシュラーからはいつものキレが感じられず、消化不良気味であった。
ただ、グトリー役を演じたダナイ・シェートやラッドゥー役を演じたヒート・シャルマーなどの子役たちは好演していた。映画の中心はグトリーであり、子供向け映画と呼ぶことも可能であるが、糞が転がる不衛生なトイレを掃除するシーンなど不快感を催すシーンもいくつかあり、万人向けの映画ではない。
映画の舞台となっている場所は具体的に明示されていなかったが、ウッタル・プラデーシュ州のどこかの町であろう。人々の話す言葉も同州の方言であった。ただ、ロケはマハーラーシュトラ州ナーシク周辺で行われたようである。確かに風景は北インドっぽくなかった。
「Guthlee Ladoo」は、そのキュートな題名や子役を前面に押し出した構図とは裏腹に、不可触民制度を主題にしたヘビーな物語である。特に不可触民の子供の教育問題を取り上げている。ただ、なまじっか娯楽映画として作ってしまったため、非常に浅薄な結末でお茶を濁す結果になった。差別の描き方もステレオタイプ的で、実際に目で見た差別ではなく想像上の差別のようにも感じた。中途半端な映画である。