「All We Imagine As Light」は、現在インドでもっとも注目を浴びている映画監督、パーヤル・カパーリヤーの最新作である。カパーリヤー監督はこの作品でカンヌ映画祭のグランプリを受賞し一躍時の人となった。アカデミー賞外国語映画賞の公式エントリー作品に選ばれたのはキラン・ラーオ監督の「Laapataa Ladies」(2023年/邦題:花嫁はどこへ?)だったが、カパーリヤー監督のこの作品の方が出品にふさわしかったという声も聞かれた。
この作品はムンバイーを主な舞台とし、ヒンディー語、マラヤーラム語、マラーティー語のセリフが飛び交うマルチリンガル映画になっている。ただ、主要キャラがマラヤーリー(ケーララ人)という設定であり、表記も英語と併記の形でマラヤーリー語が使われているため、マラヤーラム語映画扱いになっている。ちなみにカパーリヤー監督はマラヤーリーではない。インドの映画人としては非常に珍しいケースだが、彼女は特定の言語にこだわって映画を作っていない。つまり特定の映画界に属しているわけでもない。たとえば前作「A Night of Knowing Nothing」(2021年)はヒンディー語とベンガル語のバイリンガルだった。主題に沿ってインドのリアルな言語状況を反映しようとしている汎インド的な映画監督だといえる。
プレミア上映はカンヌ映画祭の2024年5月23日。ケーララ州では一足早く2024年9月21日に公開され、同年11月29日からインド全土で公開された。インド旅行中の2024年12月29日に南デリーのDLFプロミナード内にあるPVRアイコンで鑑賞した。チケット代は560ルピーだった。
キャストは、カニ・クスルティ、ディヴィヤー・プラバー、チャーヤー・カダム、フリドゥ・ハルーン、アズィース・ネドゥマンガド、アーナンド・サーミーなど。チャーヤーは「Laapataa Ladies」で肝っ玉母さんマンジュー役を演じていた女優だ。
プラバー(カニ・クスルティ)はムンバイーの病院に勤めるマラヤーリーの看護師だった。既婚であったが、夫はドイツに住んでおり、最近は音信不通だった。プラバーは同じ病院に勤める若い看護師アヌ(ディヴィヤー・プラバー)と同居していた。アヌはイスラーム教徒の青年シアーズ(フリドゥ・ハルーン)と付き合っていたが、家族や周囲には秘密にしていた。 ある日、プラバーとアヌの家に差出人不明の小包が届く。開けてみると中にはドイツ製の炊飯器が入っていた。プラバーは勝手にそれが夫から贈られたものだと考えるが、夫に電話をしてみてもつながらなかった。プラバーは同僚の医師マノージ(アズィース・ネドゥマンガド)からアプローチを受けるが、彼女は既婚だと言ってそれを断る。 同じ病院の食堂で働くパールヴァティー(チャーヤー・カダム)は、20年以上住んでいた家を追い出されそうになっていた。彼女の手元には住所を証明する書類がなく、代わりの住居を宛がわれることもなかった。プラバーは弁護士を紹介して彼女を助けようとするが、書類の欠如により弁護士でも何もできなかった。とうとうパールヴァティーはムンバイーを引き払ってラトナギリの村に戻ることを決める。 プラバーとアヌは帰郷するパールヴァティーに付いていく。密かにシアーズが後を追ってきており、アヌと密会していた。プラバーはアヌがシアーズと一緒にいるところを目撃する。プラバーは溺れて海岸に打ち上げられた男性(アーナンド・サーミー)を助ける。その男性は記憶を失っており、プラバーの夫になったつもりで彼女と会話をする。プラバーはアヌにシアーズを紹介するように言う。アヌはシアーズを連れてプラバーとパールヴァティーの前に姿を現す。
パーヤル・カパーリヤー監督はドキュメンタリー映画監督として紹介されることが多いが、この「All We Imagine As Light」はフィクション映画である。しかも、大まかに恋愛映画に分類できるだろう。主要キャラは3人。マラヤーリーの看護師プラバー、同じくマラヤーリーの看護師アヌ、そしてマラーティー(マハーラーシュトラ人)の料理人パールヴァティーである。全員女性で、それぞれに男性との何らかの問題を抱えている。プラバーは既婚であり、夫は存命だと思われるが、ドイツに住んでおり、結婚後しばらくして音信不通になってしまっていた。アヌはヒンドゥー教徒であったが、イスラーム教徒の青年と付き合っており、家族に紹介できずにいた。パールヴァティーの夫は既に死んでいたが、夫が彼女に必要書類を残さなかったため、再開発の対象になった住居を追い出されることになっていた。
アヌとパールヴァティーのエピソードは分かりやすく、それほど解釈の余地はない。だが、プラバーのエピソードは難解だ。ドイツで働いているという夫の存在から謎が多く、彼女の手元に届いたドイツ製の炊飯器も本当に夫から贈られたものなのか明らかにはされない。さらに、ラトナギリで彼女が助けた男性との会話はさらにミステリーを助長する。基本的にはリアリズム映画だが、終盤のエピソードには空想力が入り込み、現実と空想が入り交じる。題名になっている「All We Imagine As Light(光として我々が想像する全て)」も、彼女のエピソードのことを主に示していると考えられる。
プラバーは、上級看護師として若い看護師たちを率いる立場にいる。彼女はほとんど感情を表に表さない代わりに面倒見が良く、周囲から慕われている存在だ。ところが、やはり夫との関係に思い悩んでいる様子が感じ取れる。長いこと連絡をくれない夫と既に関係は切れてしまったのか。彼女は既婚であると自覚しているものの、どこかで新たな一歩を踏み出すチャンスをうかがっているところもある。そんな彼女にとって、ドイツ製の炊飯器は、夫から贈られたという確証はなかったものの、夫との関係がまだ続いているという希望を抱かせるのに十分だった。台所でこっそりと炊飯器を大事そうに抱える彼女の姿がとても印象的に映し出されていた。
溺れた男性との出会いと彼との会話は、さらに彼女の気持ちに影響を与える。その男性は彼女の夫ではなかったが、彼の面倒を見ているうちに、何となく彼を夫と重ね合わせることができるようになった。その男性は記憶を失っており、まるで彼女の夫であるかのように話し出す。そんな彼から謝罪を受けたことで、プラバーはまたひとつ希望を得ることができた。希望を失いかけた人間にとって、人生を生きるためには、何の根拠もなくても希望ある未来を想像させてくれる小さな出来事でも十分なことがある。「All We Imagine As Light」は、人生のそんな瞬間を切り取った作品だといえる。幻想を信じていなければムンバイーのような大都市では生きていけない、というような独白もあった。
性描写がある映画であった。アヌがラトナギリまで追ってきたシアーズと密会してセックスするシーンがあるが、非常に生々しい映像であった。さらに、中盤にはアヌの着替えシーンがあり、必要もないのに一瞬だけ乳首を露出する場面があった。インド映画で乳首を見たのはこれが2回目である。一般的な娯楽映画ではないにしても、少し驚いた。女性監督ならではの性描写の見せ方があると感じた。
「All We Imagine As Light」は、ドキュメンタリー映画監督の印象が強いパーヤル・カパーリヤー監督によるフィクション映画だ。一方でドキュメンタリー映画の延長線上にあるようなリアリズム映画で、言語も非常に写実的だが、不思議なことにもう一方で現実と空想が入り交じるファンタジー的な要素も見出せる。このハイブリッド性はボーダーレスに活躍するカパーリヤー監督らしい仕掛けだ。映画の新しい可能性を感じさせる作品であり、カンヌ映画祭でグランプリに輝いたのも納得できる。インドが世界に誇るべき作品である。