ヒンディー語映画は21世紀に入り劇的な変化を遂げて来たが、その中でひとつの新しい傾向として定着したのが、続編の制作である。ハリウッド映画などではヒット映画の続編は既に食傷気味なほどお馴染みの慣習であるが、ヒンディー語映画では従来、いかに特定の作品がヒットしようとも、その続編を作るという発想がなかったようである。ただ、ここ10年ほどの間に続編制作は完全に定着し、3作以上作られシリーズ化したタイトルもいくつか出て来ている。その内の筆頭が「Dhoom」シリーズであり、現在第3作まで作られている。
そもそも「Dhoom」シリーズはヒンディー語映画界において続編モノの走りであった。2004年に公開されてヒットとなった「Dhoom」。その続編「Dhoom: 2」が公開されたのが2006年。同年には、「Munna Bhai M.B.B.S」(2003年)の続編「Lage Raho Munna Bhai」(2006年)が公開されており、時期的にはこちらの方が先なのだが、「○○ 2」というタイトルを最初に名乗った続編映画は間違いなく「Dhoom: 2」であり、ヒンディー語映画界に続編制作のトレンドを根付かせた重要なシリーズとなっている。
シリーズ第1作「Dhoom」はバイクによるスタントアクションを売りにした刑事映画であった。それまでのインドでのバイクの位置付けは「四輪車を買えない人が乗る庶民の足」と言った程度のもので、売れ筋も100cc前後の燃費のいい小型バイクが主流だったのだが、「Dhoom」においてスズキのスポーツバイクを中心に大型バイクが大々的にクローズアップされ、「バイクはかっこいい乗り物」というパラダイムシフトを起こした。現在、日本や海外のバイクメーカーがインドで大型バイクを販売しており、順調な売り上げの伸びを計上しているが、そもそもの出発点はこの「Dhoom」であった。当時のインドでは普通には大型バイクを購入することができなかったので、熱心なバイクファンはタイなどから個人輸入して自慢げにハイウェイをかっ飛ばしていた。
ただ、続編「Dhoom: 2」では、シリーズ化するに当たって何をシリーズの売りとするかに多少迷いがあったと見える。とりあえず、アビシェーク・バッチャン演じる敏腕警官ジャイとウダイ・チョープラー演じるバイク野郎アリーを、シリーズをつなぐ縦糸としながら、テーマはバイクよりもむしろハイテクへと移行し、SF染みたテクノロジーを駆使する国際的な泥棒を彼らが追うというパターンが生まれた。毎回悪役に、主役級の男優・女優を起用する方針も「Dhoom: 2」で完全に確立したと言っていいだろう。つまり、「Dhoom」シリーズは警官役の2人よりもむしろ悪役が主人公なのである。
そして2013年12月20日にシリーズ3作目となる「Dhoom: 3」が公開された。監督はヴィジャイ・クリシュナ・アーチャーリヤ。「Dhoom」、「Dhoom: 2」と脚本などを担当して来た人物で、「Tashan」(2008年)で監督デビューしている。前2作の監督はサンジャイ・ガードヴィーだった。キャストでは、アビシェーク・バッチャンとウダイ・チョープラーは変わらず続投となったが、ジャイの妻スイーティーを演じるリーミー・セーンは今回は全く登場せず。悪役には「ミスター・パーフェクト」の異名を持つスター男優アーミル・カーン。そしてヒロインとしてトップ女優の一人カトリーナ・カイフ。さらにジャッキー・シュロフも出演しており、豪華な布陣だ。音楽は前作、前々作同様にプリータム。作詞はサミール。シリーズを通して流れる「Dhoom Machale Dhoom…」のメロディーも健在だ。
1990年シカゴ。イクバール・カーン(ジャッキー・シュロフ)はグレート・インディアン・サーカスの団長だったが、負債を抱え、西シカゴ銀行から劇場の閉鎖を強要されていた。イクバールは起死回生の策として、銀行幹部にサーカスを見物してもらい、気に入ったら閉鎖を許してもらえるように頼んでいた。銀行総裁アンダーソンらを前にイクバールは、息子のサーヒルを使って前代未聞のショーを行う。ところがアンダーソンはショーが終わった後に無情にも5日以内の立ち退きを要求する。全てを否定されたイクバールはアンダーソンの前で拳銃自殺をする。 それから月日が流れ、成長したサーヒル(アーミル・カーン)はシカゴに舞い戻った。サーヒルはハイテクとサーカス技術を使って西シカゴ銀行の支店から次々に金を盗み出す。そして盗んだ後に彼は必ずヒンディー語でメッセージを残していた。犯人はインド人であると考えたシカゴ警察のヴィクトリアは過去にロンドンでの会議で出会ったことがあるムンバイー警察のジャイ(アビシェーク・バッチャン)と連絡を取り、シカゴに招聘する。ジャイは相棒のアリー(ウダイ・チョープラー)と共にシカゴを訪れ、犯人逮捕に乗り出す。 ジャイはテレビのインタビューで犯人を挑発し、再び泥棒を行わせようとする。果たしてジャイの思惑通りに事は進むが、サーヒルは違った形でアプローチして来る。なんとサーヒルは直接ジャイを訪ね、泥棒をしているのはチュプチャプ・チャーリーという旧友だと明かす。そしてチャーリーの逮捕に協力すると申し出る。こうしてサーヒルは苦労せずに銀行の内部に入り込み、犯行計画を立て、やすやすと金を盗み出した。ただ、ジャイとアリーは逃亡する犯人を執拗に追い掛け回す。そしてジャイは犯人に銃弾を一発命中させる。 犯人には逃げられたものの、ジャイには犯人が誰か分かっていた。それはサーヒルである。なぜなら銀行の金庫の暗号は限られた者しか知らず、その内外部の者はサーヒルだけだったからだ。ジャイが駆け付けたそのとき、サーヒルはグレート・インディアン・サーカスを再起させ、初演を終えたところだった。ジャイはサーヒルを裸にさせ、傷跡を確かめる。ところがサーヒルの身体にはかすり傷すら見当たらなかった。有力な証拠を得られず、ジャイはサーヒルを逮捕できなかった。総裁アンダーソンはジャイとアリーを無能と断定し、任を解いてインドに追い返す。 ところがジャイとアリーはインドに帰らなかった。ヴィクトリアの家に厄介になり、非公式にサーヒルの動向を追い始める。その中で、ジャイはサーヒルに双子の弟サマル(アーミル・カーン)がいることを突き止める。グレート・インディアン・サーカスの摩訶不思議なマジックや銀行から金を盗み出すテクニックの秘密は、この双子の弟にあったのである。ただ、サマルは知的障害があり、普段は世間から隠れて地下に住んでいた。日曜日だけは自由を与えられ、サマルは外出をしていた。そこでジャイは変装してサマルに近付き、彼と親交を結ぶ。ジャイはサマルがサーカス団員のアーリヤー(カトリーナ・カイフ~)に片思いしていることを知り、それを使ってサーヒルとサマルの仲を裂く作戦に出る。また、一方でグレート・インディアン・サーカスの歴史についても調査し、サーヒルが西シカゴ銀行に抱く恨みを理解する。 サーヒルは最後に西シカゴ銀行の本店を略奪し、銀行を潰そうと考えていた。ところがサマルはアーリヤーへの愛とサーヒルの嫉妬によって独自の行動を取りたがるようになる。変に思ったサーヒルはサマルの後を付け、そこでジャイが彼に接触していることを知る。そこでサーヒルはサマルの振りをしてジャイに近付き、彼を不意打ちして捕縛する。サーヒルはジャイに死を用意した後、泥棒を実行に移すが、アリーの活躍によってジャイは一命を取り留めていた。逃亡するサーヒルとサマルをジャイはダムの上で挟み撃ちにする。サーヒルは観念し、今までの犯罪の記録が入ったメモリーをジャイに渡して、サマルだけは見逃すように頼む。そしてサーヒルは飛び降り自殺を図るが、サマルが彼を捕まえ、2人は一緒にダムの底に消える。 サーヒルとサマルは死んだが、西シカゴ銀行は倒産し、彼らの目的は達成された。グレート・インディアン・サーカスはアーリヤーが受け継ぎ、人気を博していた。
ヒンディー語映画界では、身体や知能に障害を持った子供や大人が主人公の映画がいくつか作られている。有名なところではディスレクシア(失読症)を扱った「Taare Zameen Par」(2007年)やアスペルガー症候群を扱った「My Name Is Khan」(2010年)などがあるが、中には身体障害を笑いのネタにするような人道的にどうかと思う作品もあるにはある。知的障害のサマルが物語のキーパーソンとなっている「Dhoom: 3」をそれら「障害映画」のカテゴリーに含めることも可能であるが、それは適切ではないだろう。
むしろ重要なのは、サーヒルとサマルによって、1つの存在に2面があること、または2つで1つの存在があることが示されていたことである。その2つの内のひとつが表だとすれば、片方は裏となる。そして裏が裏である理由づけに知的障害が使われていたと言える。
この映画は基本的にシカゴが舞台となっているが、ジャイとアリーの登場シーンにのみインドのシーンが出て来る。そこでアリーがインドについて、「2つのインドがある」と語る。1つは「punter」、つまり一般庶民、しかもその意味は純粋な心を持った一般庶民となる。もう1つはサーハブ、つまり汚職された金持ちである。そして後者が全員牢屋に入ればインドは初めて真の自由を手にすると豪語する。
サーヒルとサマルの関係は、この「2つのインド」に比して考えてもいいだろう。サーカス団を統率し、常にステージに立って主演を務め、銀行から金を盗み出す計画を立案するサーヒルは、2000年問題以降、華々しく世界の表舞台に登場し急成長を遂げた「モダンなインド」を象徴している。一方でサーヒルの影となって動き、1週間の内1日しか自由が与えられず、それでも文句を言わずに毎日を送るサマルは、近年の急速な経済成長から取り残されたインドの大衆によって構成される「古いインド」、「バーラト(インドの国号)」を象徴している。ちなみに、「サーヒル」は「マジシャン」、「魅惑する者」を意味し、「サマル」は「戦場」を意味する。
映画の中でサーヒルとサマルは強い信頼関係で結ばれ、協力関係にあるが、ジャイの横やりが入ったせいで二人の間に初めて亀裂が走る。最後、サーヒルは自らを犠牲にしてサマルを助けようとするが、サマルはサーヒルを離さず、二人は一緒に命を落とす。これは父親の教えでもあった。この一連の展開は、「2つのインド」が常に運命を共にすることを意味していると取れなくもない。確かに今はこの両者の間で格差が広がっているが、どちらも自身の存在のためには相互の存在を必要としている。そして、この「2つのインド」が力を合わせれば、世界を驚かせる魔法も可能となる。そんなメッセージが、一見すると娯楽に徹しているように見える「Dhoom: 3」から読み取れた。
さらに、双子ながら全く言動の異なる2人の人物を1人の俳優―――アーミル・カーン―――がどのように演じるかがこの映画の最大の見所となっていた。もちろん、アーミル・カーンに双子の弟などいない。ヒンディー語映画界において役の皮膚の中にまで入り込む演技と賞賛され、良質の脚本に基づいた映画にしか出演しない寡作のアーミルが、この役をわざわざ引き受けた理由がよく分かる。サーヒルとサマルを、ちょっとしたジェスチャーや表情の変化などを使って、演技のみによって演じ分けているところはさすがである。サーヒルがサマルの振りをしているシーンが一番の腕の見せ所だった。ただ、長身のアビシェーク・バッチャンとスクリーンを共有したために、彼の弱点である身長の低さが強調されてしまっていたシーンがいくつかあった。覚悟はしていたと思うが、ここまで身長が違うのかと、驚いた観客は多かったのではなかろうか。
アーミル・カーンの登場シーンが多く、演技の難易度も桁違いに高く、そして彼のオーラもすさまじかったことから、その他の俳優たちの出番は極端に少なかった。ヒロインのアーリヤーを演じたカトリーナ・カイフにしても、登場シーン「Kamli」でのソロダンスで一定のインパクトを残したものの、最近の彼女の出演作に比べると物足りなさを感じた。アビシェーク・バッチャンとウダイ・チョープラーについてはさらにアーミル・カーンに食われている印象であった。
カトリーナ・カイフがロープダンスをしているシーンがあったが、それを見て思い出したのがイーシャー・シャルワーニーだ。プロのダンサーだけあって、彼女のダンスに敵う女優はヒンディー語映画界には存在しない。だが、そこまでのダンス能力が普通の映画では求められていないことから、彼女は女優としてのキャリアを築きにくかったようだ。「Dhoom: 3」はサーカスが題材になっていたので、彼女には最適だった。もし彼女がカトリーナの代わりをしていたら、もっと迫力のあるサーカスシーンが撮れたのではないかと思う。
音楽において「Dhoom: 3」を代表するのは何と言っても「Malang」であろう。シャンカル・マハーデーヴァンの息子スィッダールト・マハーデーヴァンが歌い、「スーフィー聖者」を意味する「マラング」という言葉を題名やサビに据えた、プリータム渾身のナンバーだ。グレート・インディアン・サーカスのサーカス・シーンで使用されており、このシーンのみに5,000万ルピーが費やされたと言う。
前作ではバイクの登場シーンはお情け程度であったが、今回は冒頭からバイクが大活躍だった。「Dhoom」ではスズキのHayabusaがフィーチャーされていたが、「Dhoom: 3」ではBMWのスポーツバイクS1000RRが前面に押し出されていた。
残念ながら僕は「Dhoom: 3」をDVDで鑑賞したが、映画館で観るのが基本のインド映画の中でも、間違いなくスクリーンで観るべき映画の一本である。日本での劇場一般公開も噂されており、日本人観客も近い将来にその機会に恵まれるかもしれない。