インド映画界には、変幻自在の蛇イッチャーダーリー・ナーグ(雄)またはイッチャーダーリー・ナーギン(雌)を主人公にした「ナーグ映画」または「ナーギン映画」というジャンルがあり、インド人の間で非常に人気がある。元々イッチャーダーリー・ナーグ/ナーギンは神話伝承に登場する想像上の生き物であったが、インド独立後から度々映画化またはドラマ化され、愛されてきた。
ナーギン映画の金字塔ともいえる作品が、1986年11月28日公開の「Nagina」である。この映画は大ヒットし、同年最高の興行収入を上げた作品の一本になった。題名の「नगीना」とは「宝石」という意味であるが、容易に「नागिन」を想起させる音になっている。監督はハルメーシュ・マロートラー。1969年から映画を撮っているが、この「Nagina」が彼にとって初のヒット作になった。
主演はリシ・カプールとシュリーデーヴィー。通常ならばスター男優のリシが「ヒーロー」となるところであるが、ナーギンを演じたシュリーデーヴィーのインパクトがあまりに強く、リシを差し置いて彼女が映画の「ヒーロー」と呼ばれた。既に南インド映画界で地位を確立し、ヒンディー語映画界でもヒット作を出していたシュリーデーヴィーだが、この「Nagina」の成功が彼女を「最初の女性スーパースター」に押し上げた。
他に、コーマル・マフヴァーカル、アムリーシュ・プリー、スシュマー・セート、プレーム・チョープラー、ジャグディープ、ヴィジュー・コーテーなどが出演している。
ロンドンに留学していたラージーヴ(リシ・カプール)は15年振りにインドの故郷に戻ってくる。父親は既に亡く、母親(スシュマー・セート)は息子の帰りを待ちわびていた。ラージーヴの家系は広大な農地と砂糖工場を経営しており、亡き父親の親友かつ忠実な部下のアジャイ・スィン(プレーム・チョープラー)がその事業を運営していた。アジャイは、娘のヴィジャヤー(コーマル・マフヴァーカル)をラージーヴと結婚させようと考えていた。
ラージーヴは屋敷の近くに廃墟を発見し、そこでラジニー(シュリーデーヴィー)という美しい女性と出会って恋に落ちる。ラージーヴの母親は息子の結婚相手をヴィジャヤーに決めるが、ラージーヴは相談なしに決められた縁談に反発し、ラジニーと結婚すると言い出す。最初は面食らった母親であったが、ラジニーを一目見て気に入り、二人を早々に結婚させようとする。ヴィジャヤーはラージーヴの決断を受け入れるが、彼の資産を狙っていたアジャイは憤慨し、ラージーヴとラジニーの結婚を妨害しようとするが失敗する。ラージーヴとラジニーの結婚式が行われる。アジャイはラージーヴを殺そうとするが、蛇に咬まれて死ぬ。
ラージーヴは幼少時に蛇に咬まれたことがあったが、たまたま通りがかった行者バイローンナート(アムリーシュ・プリー)に救われたことがあった。ラージーヴの屋敷に立ち寄ったバイローンナートは毒蛇の気配を感じる。彼は、ラージーヴの妻ラジニーこそがイッチャーダーリー・ナーギンであると見抜く。バイローンナートはラージーヴの母親にそのことを明かす。母親はラジニーが蛇に変身する姿を目撃するが、ラジニーは自ら彼女に自分の正体を明かし、必ず家を守るからそのままにして欲しいと頼む。だが、母親はバイローンナートを家に呼び込んでしまった。
バイローンナートが儀式を始めたことでラジニーは彼と対峙せざるをえなくなる。だが、そこへラージーヴが現れ、バイローンナートと戦う。誤って母親が刺されてしまい、死亡する。バイローンナートも蛇に咬まれて死ぬが、死ぬ直前にシヴァ神に対してラジニーを完全な人間にするように頼む。こうしてラジニーは人間としてラージーヴと幸せに暮らすことになった。
大味なところはあるが、イッチャーダーリー・ナーギンというインドが誇る想像上の生き物をうまくファミリードラマに組み込み、インド人の琴線に触れる作品に仕上げていた。シュリーデーヴィーのダンスも素晴らしい。ナーギン映画の最高傑作に数えられることも多い「Nagina」だが、その評価に間違いはない。
イッチャーダーリー・ナーギンのラジニーがラージーヴの前に女性の姿で現れ、彼との結婚を決めた裏にはこんなエピソードがあった。幼少時にラージーヴは蛇に咬まれたことがあった。このとき実はラージーヴは死んでいた。ラージーヴを咬んだのはラジニーのパートナーであるイッチャーダーリー・ナーグであった。ところがそこにたまたま居合わせたバイローンナートがビーン(笛)を吹いてナーグを操縦したことで、ナーグは自らの命をラージーヴに渡し、自身は抜け殻となってしまった。ナーグを元通りにするためには、ラージーヴを殺し、彼に吹き込まれた命をナーグに戻す必要があった。それ以来、イッチャーダーリー・ナーギンはラージーヴが来るのを待ちわびていたのだった。
当初、イッチャーダーリー・ナーギンはラージーヴの命を狙っていた。彼の屋敷に忍び込み機会をうかがうが、母子の愛情に感銘を受け、ラージーヴ殺害を取り止める。その代わり彼女はラージーヴと結婚することを決める。そして、命ある限りラージーヴとその家族を外敵から守ることを誓う。
確かに「Nagina」のストーリーはラジニーを中心に回る。ラージーヴは添え物に過ぎない。彼はラジニーがイッチャーダーリー・ナーギンであることにも、アジャイに殺されそうになったことにも気付かない。映画内で起こっていることの全てを把握しているのはラジニーであり、この物語はラジニーの戦いなのである。
ラジニーが戦う相手は2人いた。第一の悪役はアジャイである。いい人かと思いきや、ラージーヴが継承すべき資産を横取りしようと狙っている悪人であった。だが、アジャイは野心を出しすぎたために、ラージーヴとその家族を必死で守るイッチャーダーリー・ナーギンの妻ラジニーによって殺されてしまう。アジャイの退場は物語の中盤を過ぎたあたりで、意外にも早い。
もう一人の悪役は途中から登場するバイローンナートだ。バイローンナートはなぜかイッチャーダーリー・ナーギンに敵意を燃やしており、ラージーヴの家族の一員になったラジニーを追い出そうと躍起になる。彼が躍起になる理由は後付けで説明される。彼はラジニーが隠し持つ宝石「ナーグマニ」を狙っていた。ナーグマニはイッチャーダーリー・ナーグ/ナーギンが持つ宝石で、それを手にした者は強大な力を持つとされる。バイローンナートはナーグマニによって世界征服を狙っていたのだった。そのための選択肢はいくつかあった。まずはラジニーを問いただしてナーグマニの在処を聞き出すこと、もうひとつはラージーヴを殺してイッチャーダーリー・ナーグを蘇らせ、彼からナーグマニの在処を聞き出すことだ。ラジニーは絶対にバイローンナートにナーグマニの在処を教えようとしなかったが、バイローンナートがラージーヴを殺すと言い出したことで、彼と戦わざるをえなくなる。
ただし、蛇に咬まれて絶命しようとしたバイローンナートをラジニーは薬草で助けようとする。彼女にとってバイローンナートは敵であったが、蛇を操る偉大な力を得た尊敬すべき行者でもあった。倒れた敵を救おうとしたことで、この映画は単なる勧善懲悪の物語を超越することになった。結局バイローンナートは自ら死を選ぶが、その死に際にラジニーを本物の人間に変えるという返礼をする。果たしてイッチャーダーリー・ナーギンにとって完全に人間になることが幸福だったのかは不明だが、少なくともラージーヴは彼女がイッチャーダーリー・ナーギンだとは知らず、二人の夫婦関係にとってはそれが一番だったのだろうと思える。
もっとも謎の立ち回りをするのはラージーヴの母親だ。彼女は当初、ラージーヴをヴィジャヤーと結婚させようとし、ラージーヴがラジニーを連れてくると一転してラジニーとの結婚を決める。バイローンナートからラジニーがイッチャーダーリー・ナーギンだと聞き、それを確かめると、今度は彼女を追い出そうとする。クライマックスで彼女は死んでしまうので、彼女の真意がどこにあったのかよく分からないのだが、必死にラージーヴや母親に尽くそうとするラジニーを冷酷に裏切ったキャラと解釈しても問題ないだろう。母と息子、母と嫁の関係を中心に進むストーリーであり、彼女はその中心人物なのだが、彼女の立ち位置が不安定であるため、引っ掛かるものを感じる作品になっていた。
音楽監督はラクシュミーカーント・ピャーレーラール。作詞はアーナンド・バクシー。蛇使いのメロディーが多用され、ダンスシーンも多いが、「Nagina」の中でヒンディー語映画史に残る名シーンとして記録されているのが終盤の「Main Teri Dushman Dushman Tu」だ。ラジニーがビーンを吹いて彼女を制御しようとするバイローンナートに立ち向かって踊るのだが、それが蛇の動きを模したダンスになっている。コレオグラファーは巨匠サロージ・カーン。ダンスの名手として知られるシュリーデーヴィーの表現力を極限まで引き出し、ダンスによって人間を蛇に見せていた。
「Nagina」は、インド人の大好きなナーギン映画の代表作であり、シュリーデーヴィーの出世作の一本である。彼女の演じるイッチャーダーリー・ナーギンが物語の中心でありながら、決して珍奇なファンタジー映画で終わらず、きちんと家族愛や夫婦愛を主軸にした愛の物語に仕上げている。必見の映画である。