以前、「Maine Gandhi Ko Nahin Mara」(2005年)という映画があった。認知症になり、突然「私はガーンディーを殺していない」とわめきだした老人の物語であった。「インド独立の父」と呼ばれたマハートマー・ガーンディーは、インド独立の翌年となる1948年1月30日、狂信的なヒンドゥー教徒の青年ナートゥーラーム・ゴードセーによって射殺された。「Maine Gandhi Ko Nahin Mara」の老人はゴードセーとは全く関係ない人物であったが、2023年9月29日からZee5で配信開始された「I Killed Bapu」は、ゴードセー本人を主人公にした映画である。「Bapu」とは「お父さん」という意味で、ガーンディーの愛称だ。
監督はハイダル・カーズミー。キャストは、サミール・デーシュパーンデー、ウマーシャンカル・ゴーエンカー、ムケーシュ・カパーニー、ラージェーシュ・S・カトリーなどである。
実は近年になってゴードセーを巡る映画がよく作られている。「Hamne Gandhi Ko Maar Diya」(2018年)、「Why I Killed Gandhi」(2022年)、そして「Gandhi Godse Ek Yudh」(2023年)などである。これは、2014年から中央で政権を握るインド人民党(BJP)と無関係とは思えない。ゴードセーは、BJPの母体である民族義勇団(RSS)に所属していたことがあり、BJPの思想と非常に近い人物だからだ。
RSSは、ヒンドゥー教至上主義を掲げ、ヒンドゥー教徒としての正しい価値観を広めることを使命としており、ヒンドゥー教徒たちを守るために軍事訓練も行う、全国的なボランティア組織である。一般的な歴史観では、ゴードセーはインドに独立をもたらしたガーンディーを暗殺するというとんでもない大罪を犯した犯罪者として扱われている。彼の思想に影響を与えたRSSも事件後はしばらくの間禁止された。しかしながら、RSSは「アカンドバーラト(完全インド)」の独立こそが正義だと信じており、印パ分離独立を認め、その原因も作ったガーンディーは、母国を売った裏切り者ということになる。そして、ガーンディーを暗殺したゴードセーは一転して英雄視される。ゴードセーの再評価と、ゴードセーを英雄視する新たな歴史観を普及させる効果のある映画は、RSSにとって都合がいい。「I Killed Bapu」についてもまず気になるのは、監督がどういう視点でゴードセーを描くかであった。
RSSは、ヒンドゥー教徒が過去1000年間、外来の侵略者によって虐げられてきたという歴史観も持っている。彼らにとってはインドを植民地化した英国人も敵だが、それ以前にインド各地で政権を築きヒンドゥー教徒を支配してきたイスラーム教徒も敵になる。「I Killed Bapu」の監督はイスラーム教徒である。もしかしたら単純にゴードセーを英雄視する映画ではないかもしれないという予想もあった。
ところが蓋を開けてみればこの映画は完全にゴードセーを礼賛していた。映画はゴードセーがガーンディーを暗殺するところから始まる。次に場面は裁判所に移り、ゴードセーが自分の行為を正当化する演説を延々と行う。おそらく彼が話す内容は裁判記録をそのままなぞっている。そして最後にはゴードセーが死刑になる直前までが映し出される。もっとも重要なのはゴードセーの独白部分だ。
「I Killed Bapu」の中でゴードセーがガーンディーを殺した理由として挙げていたのは主に以下の点であった。
- 独立運動の中でイスラーム教徒に迎合し、パーキスターンの建国を後押しして、ヒンドゥー教徒の独立運動家たちが抱いていた「アカンドバーラト」の夢を破壊したこと。
- 非暴力主義に執着するあまり、バガト・スィンやスバーシュチャンドラ・ボースといった、武力によって独立を勝ち取ろうとした独立運動家たちを正当に評価せず、独立後も隣国と戦争が起こっているにもかかわらずその弱腰な態度を改めなかったこと。
ちなみにゴードセーはガーンディーを暗殺した後、現行犯逮捕となり、裁判にかけられた。彼の死刑は1949年11月8日に宣告され、刑はそれから1週間後の11月15日に執行された。映画の中では、看守から「最期の願い」を聞かれたゴードセーはまず「アカンドバーラト」を要求し、それは自分でなければ実現できないと自虐的につぶやいた後、改めて「私の遺灰をインダス河に撒いて欲しい」と頼む。インダス河の大部分はパーキスターン領に組み込まれた。彼が言わんとすることは、「アカンドバーラト」の夢を誰かに受け継いでもらいたいということだ。
映画には、ゴードセーの思想に多大な影響を与え、ガーンディー暗殺後にゴードセーと併せて逮捕されたヴィール・サーヴァルカルも登場する。サーヴァルカルは、RSSとは別にヒンドゥー教至上主義を掲げる組織ヒンドゥー・マハーサバーのリーダーであった。BJP政権下でサーヴァルカルの再評価も急速に進んでいる。「I Killed Bapu」に関しては、サーヴァルカルに焦点が当てられた映画ではなかったが、存在感はあった。
サーヴァルカルと同じくらい重要人物になっていたのが、独立後に副首相と内相を務めたサルダール・パテールだ。基本的にはガーンディーの右腕として描かれていたが、独立後にパテールが武力を使ってインドの統合を成し遂げようとするのをガーンディーが批判するシーンがあった。ちなみに、ジャワーハルラール・ネルーは全く登場しなかった。
ゴードセー、サーヴァルカル、パテールといった人物からどうしても導き出されるのはBJPとナレーンドラ・モーディー首相だ。ゴードセー、サーヴァルカルについてはRSSに非常に近い人物だが、パテールはBJPのライバルである国民会議派(INC)の政治家である。しかしながら、首相就任前にグジャラート州の州首相を4期務めたモーディーは、同じグジャラート州出身の豪腕政治家パテールの再評価を推進しており、彼の巨大な立像まで建設してしまった。それを考えると、ネルー内閣の中でパテールだけが特別に引き合いに出されているのにも合点が行く。
そういえば映画中、ゴードセーは気になるセリフを口走る。彼は、現世では「アカンドバーラト」を実現できなかったが、生まれ変わって実現させると言うのだ。ゴードセーが死んだのは1949年11月15日、モーディー首相が生まれたのは1950年9月17日だ。モーディー首相をゴードセーの生まれ変わりとしても矛盾はない。モーディー首相がパーキスターンとバングラデシュを併合し、ゴードセーの夢だった「アカンドバーラト」を実現させるという期待が込められているとするのは考えすぎであろうか。
映画が作られた意図を考え出すと面白くて止まらなくなってしまうが、映画自体は低予算で作られた何の面白味みもない作りである。有名な俳優の出演もない。セリフはいわゆる純ヒンディー語であり、サンスクリット語の語彙が多用されているため、ある程度の語学力が要る。
「I Killed Bapu」は、マハートマー・ガーンディーを暗殺したナートゥーラーム・ゴードセーの裁判での演説などを再現し、彼の再評価を推し進めようとするプロパガンダ映画である。監督はイスラーム教徒だが、BJPの息が掛かっているとしか思えない。映画として楽しむというより、現在のインドの政治状況を垣間見る資料として有用な映画だと感じる。