インド最北部ラダック地方は、インド亜大陸の中では僻地になるが、そのラダック地方の中でも最僻地とされるのがザンスカール地方である。主都レーをはじめとして、ラダック地方の主な町はインダス河沿いに点在するが、ザンスカール地方はインダス河の支流であるザンスカール河に位置している。しかし、現在ザンスカール河沿いにザンスカール地方まで通じる道はない。ザンスカール地方はレーと同じチベット仏教文化圏に入るが、レーからザンスカール地方には直接行くことができず、イスラーム教文化圏であるカールギルを経由することになる。この道路は冬季には冬で閉ざされるため、ザンスカール地方は陸の孤島となる。ただ、冬季にはザンスカール河が凍り、ここに氷の道ができる。地元の人々は凍ったザンスカール河を歩き、レーとザンスカール地方を往き来してきた。この道を「チャーダル」と呼ぶ。ヒンディー語で「シーツ」や「布」という意味である。
ドイツ在住の韓国人監督ミンス・パクによる「Chaddr – Unter uns der Fluss」は、ザンスカール地方のザンラに住む親子がチャーダルを通ってレーから故郷に戻る様子を追ったドキュメンタリー映画である。映画の国籍はドイツで、2020年5月7日にミュンヘン国際ドキュメンタリー映画祭でプレミア上映された。アジアンドキュメンタリーズでは「チャダー 故郷への道」という邦題と共に配信されている。
チャーダルを通ってレーからザンスカールへ行く行程は、現在では「チャーダル・トレック」と呼ばれ、冒険好きな観光客に人気のアクティビティーになっている。その様子は、山本高樹著「冬の旅 ザンスカール、最果ての谷へ」(2020年)に詳しい。ただ、極寒の中、何日間にも渡って氷の上を歩く危険なトレッキングであり、最悪の場合は死ぬこともある。
この「Chaddr」は外国人監督による作品であり、外国人の視点から一人称でチャーダル・トレックを取り上げることもできたはずである。だが、パク監督は敢えてザンスカール人親子を被写体とし、彼らの帰郷をカメラの存在感なしに追うことで、映像に叙情的な要素を加えることに成功している。レーの全寮制学校で学ぶツァンヤン・テンジンが、迎えに来た父親と共にチャーダルを通って故郷ザンラへ向かう映像がメインであるが、意外に冒険シーンは少なく、代わりに彼らの心情に焦点が当てられている。
しかしながら、ここまでカメラの存在感が消えていると、逆にどうやって撮影しているのか不思議になってくる。まるでフィクション映画のような撮り方であるし、チャーダル・トレックのような危険な行程の中でよく撮影したなと感心する。レーの女子寮やザンスカールの自宅でのシーンなど、かなりプライベートな映像もある。
また、この映画はチャーダルを通してより広い問題に視聴者の意識を向けていた。気候変動によって雪が降らず、ザンスカール河の水位も下がったことで、氷が薄くなり、チャーダルの通行が年々困難になっていること、チャーダル・トレックが観光客に人気になる一方、ルート上にゴミが山積し、環境を汚染していること、現在ザンスカール河沿いに道路が建設されており、その完成の暁にはアクセスが劇的に改善するが、その反面、ザンスカール地方に観光客が押し寄せ、今のような美しい環境が保てなくなる恐れがあることなどである。
「Chaddr – Unter uns der Fluss」は、ラダック地方に冬の間だけ出現する氷の道チャーダルを行く親子のドキュメンタリー映画である。かなり難易度が高いチャーダルの旅路を映像で見せてもらえるだけで貴重な体験だが、そこに親子の帰郷というエモーションを加えたことで、一段上の作品に仕上がっていた。