様々な要因が重なり、現在ヒンディー語映画界では未曾有の新作不足に陥っている。その代わりハリウッド映画が大々的に上映されたり、普段は公開されないような低予算マイナー映画が公開されている。そんな中、昨年南インドで大ヒットしたタミル語映画「Dasavathaaram」(2008年)のヒンディー語吹替版「Dashavtar」が2009年4月17日に公開された。これは嬉しい展開である。南インド映画がヒンディー語吹き替えされて北インドで公開されることは稀なのだが、こういうことが増えて行ってくれると、デリーにいながら理解できる言語で南インドの映画シーンも垣間見ることが出来て参考になる。
「Dasavathaaram」は、タミル語映画界の重鎮カマル・ハーサンが一人10役という野心的な多重演技をしたことで話題になった映画だ。さらに、監督は、日本でカルト的人気を博したタミル語映画「Muthu」(1995年/邦題:ムトゥ 踊るマハラジャ)のKSラヴィクマールである。タミル語オリジナル版の題名「Dasavathaaram」もヒンディー語吹替版の題名「Dashavtar」も、サンスクリット語の「dashāvatāra」がそれぞれ訛った形で、ヴィシュヌ神の十化身のことだ。ヴィシュヌ神は人類を救うために化身して地上に現れるとされており、一般的には彼の10の化身が認められている。すなわち、マツヤ(魚)、クールマ(亀)、ヴァーラハ(猪)、ナラスィンハ(人獅子)、ヴァーマナ(矮人)、パラシュラーマ(斧人)、ラーマ、クリシュナ、仏陀、カルキである。仏陀の代わりにクリシュナの兄バララーマが入ることもある。カマル・ハーサンが一人10役を演じたのも、ヴィシュヌの十化身から着想を得たのだと思われる。ヒンディー語吹き替え版ではタミル語版と比べて登場人物の名前が多少変更されていたようだが、ストーリーは同一である。
監督:KSラヴィクマール
制作:ヴェーヌ・ラヴィチャンドラン
音楽:ヒメーシュ・レーシャミヤー
歌詞:ヴァイラムットゥ、ヴァーリ
出演:カマル・ハーサン、アシン、マッリカー・シェーラーワト、ジャヤプラダー、ナポレオン
備考:デライトで鑑賞。
12世紀、シヴァ派の王(ナポレオン)がヴィシュヌ派根絶に打って出たことがあった。王はシュリーラームプルの寺院からヴィシュヌ神のご神体を奪い去ろうとするが、ヴィシュヌ派のランガラージャ・ナンビー(カマル・ハーサン)はそれに反抗する。王はご神体共々ナンビーを海に沈めてしまう。そのとき、ナンビーの妻(アシン)も頭を自ら割って死ぬ。 2004年12月20日。米国の研究所に勤めていた生物学者ゴーヴィンド(カマル・ハーサン)は、人類を滅亡させる恐れのあるバイオ兵器NACLを開発してしまう。所長はそれをテロリストに売り渡そうとするが、ゴーヴィンドはそれを奪って逃走する。最初ゴーヴィンドは研究所の友人を頼る。だが、彼は所長と通じていた。元CIAで殺し屋のフレッチャー(カマル・ハーサン)が送り込まれ、友人とその日本人の妻ユカは殺されてしまうが、ゴーヴィンドは何とか逃げ出す。ゴーヴィンドはNACLをFBIに届けようとするが、手違いによりNACLの入った封筒はシュリーラームプルに送られてしまう。フレッチャーの追撃を振り切ったゴーヴィンドは、気絶している内に貨物と共に飛行機に積み込まれ、インドへ飛ぶ。フレッチャーは、表向きバーダンサーその実パーキスターンの諜報部員であるジャスミン(マッリカー・シェーラーワト)を通訳に雇い、インドへ飛ぶ。 ゴーヴィンドは飛行機内で逮捕され、空港でベンガル人諜報局員バルラーム・ナーダル(カマル・ハーサン)に取り調べを受ける。だが、バルラームが席を外している間にゴーヴィンドはフレッチャーとジャスミンに捕まってしまう。ちょうどそのとき空港にはパンジャービー・ポップシンガー、アヴタール・スィン(カマル・ハーサン)が妻のランジーター(ジャヤプラダー)と共に到着していた。だが、アヴタールが突然血を吐いたことで空港は騒然となっており、その隙にフレッチャーとジャスミンはゴーヴィンドを連れ出す。NACLがシュリーラームプルに送られたことが分かっていたため、三人はシュリーラームプルを目指す。また、バルラームも彼らがシュリーラームプルへ向かったことを突き止め、後を追う。 道中でフレッチャーらから逃げることに成功したゴーヴィンドは、シュリーラームプルで配達人がNACLの入った封筒を届けるのを待つ。その封筒は、95歳の老婆クリシュナヴェーニー(カマル・ハーサン)に届けられる。ゴーヴィンドはそれを取り返そうとするが、クリシュナヴェーニーはNACLをゴーヴィンドラーラー神の神像の中に入れてしまう。神像の奪い合いが始まり、その中でジャスミンは死んでしまう。ゴーヴィンドはフレッチャーを振り切ることに成功したものの、クリシュナヴェーニーの孫娘ラーダー(アシン)がいつまでも神像を掴んで離さなかった。 NACLは低温で保存しなければならなかったため、ゴーヴィンドは一旦神像を砂の中に埋め、氷を探しに行く。そのとき自分がテロリストとして指名手配されていることを知る。また、神像を埋めた場所は違法に砂を採掘する業者の縄張りとなっており、神像も砂ごと持って行かれそうになっていた。ゴーヴィンドはそれを止めようとするが、逆に違法業者たちに暴行を受け、ラーダーもレイプされそうになる。それを救ったのがダリト(不可触民)の活動家ヴィンセント(カマル・ハーサン)であった。ヴィンセントはマスコミと共にその場に駆けつけ、違法業者たちの悪行を暴露した。その騒動の中でゴーヴィンドとラーダーは神像を取り返し、トラックを奪って逃走する。 だが、途中でトラックはヴァンと衝突し横転してしまう。そのヴァンに乗っていたのはイスラーム教徒一家であった。その一家の長男カリフッラー(カマル・ハーサン)は巨人であった。カリフッラーの母親が事故で怪我をしてしまったため、近くの病院へ運ばれる。そこでとりあえず神像は冷却ボックスの中にしまわれる。その病院ではちょうどアヴタール・スィンが診断を受けていた。アヴタールは喉に癌を患っており、手術が必要であった。アヴタールは最後のコンサートを行った後に手術を行うことを決める。アヴタールは医者から冷却ボックスに入った薬をもらう。 ゴーヴィンドは冷却ボックスをバルラームに届けようとするが、途中でそれはアヴタールの冷却ボックスと取り違えられてしまう。また、フレッチャーは病院まで辿り着いており、カリフッラーとラーダーを人質に取ってカリフッラーの家にゴーヴィンドを呼び寄せる。ゴーヴィンドは冷却ボックスと共にカリフッラーの家に来るが、中身はNACLではなかった。そのとき、バルラームが家宅捜索にやって来る。その混乱の中でゴーヴィンドとラーダーはフレッチャーから逃げ出すことに成功する。彼らは薬をアヴタールに届け、中身を交換してもらうことにする。そのときちょうどアヴタールはコンサート会場にいた。 アヴタールは血を吐きながらもコンサートを決行していた。ゴーヴィンドとラーダーは休憩中のアヴタールに薬を届け、神像を返してもらう。だが、そこへフレッチャーが現れる。アヴタールは喉を撃たれて重体となるが、ゴーヴィンドとラーダーは再び逃亡する。フレッチャーは後を追う。 三人は工事現場にやって来て、そこで神像の奪い合いをする。時は12月26日の朝になっていた。ゴーヴィンドは神像からNACLを密かに抜き出し、フレッチャーに渡して逃げる。ゴーヴィンドはNACLを冷やすために塩を取りに行こうとするが、フレッチャーに止められ、NACLを奪われる。ゴーヴィンドにも既に反撃の力は残されていなかった。そこへ登場したのが日本人のナラハシ・シンゲン(カマル・ハーサン)であった。シンゲンはユカの兄で、妹の仇を討つためにインドに来ていた。当初はゴーヴィンドを仇だと勘違いしていたが、真の仇はフレッチャーだと悟り、この場に現れたのだった。シンゲンは武術の達人で、フレッチャーを追い込む。ところが、敗北寸前のフレッチャーは自暴自棄になり、NACLを呑み込んでしまう。それにより、危険なウィルスが周囲に充満し始めた。 と、そのとき、沖から大津波が押し寄せ、NACLを呑み込んだフレッチャーもろとも全てを洗い流してしまう。津波による大混乱の中、ヴィンセントは子供たちを助けようとして溺死する。だが、カリフッラーとその隣人たちは、モスクで警察から取り調べを受けていたために死を免れる。ゴーヴィンド、ラーダー、シンゲンも運良く舟に乗り込んでおり、救われた。津波の去った海岸でゴーヴィンドとラーダーはいつしかお互いに恋し合っていたことを確認し合う。また、海岸には12世紀に海に沈められたヴィシュヌの像が打ち上げられていた。一方、病院ではアヴタールの手術が終わっていた。銃弾で撃たれたおかげで癌が消え去っており、彼は完治後再び歌えるだろうと診断されていた。 現代。米国のジョージ・ブッシュ大統領(カマル・ハーサン)がインドを訪問しており、マンモーハン・スィン首相やタミル・ナードゥ州のカルナニディ州首相と共に壇上に立っていた。ゴーヴィンドが司会を務め、12世紀から2004年までに起こった不思議な出来事を語っていた。ブッシュ大統領も上機嫌でインド人向けのリップサービスをしていた。
テクニカルな部分では何と言っても、主演のカマル・ハーサンが一本のまとまったストーリーの映画の中で独立した10役を演じるという、世界の映画史上類を見ない偉業に挑戦したことに注目せざるをえないだろう。それぞれ独立した小話の中で合計10役を演じた訳ではなく、1話の完結した長編の中で、主役から悪役まで、ストーリー進行上それぞれに重要な役割を果たす役を10役演じた。よって、カマル・ハーサン演じるキャラクターが二人以上同時にスクリーンに登場する場面もいくつもあるのだが、そのような特殊効果・特殊演技はカマル・ハーサンが昔から得意とするお家芸であり、全く不自然を感じさせなかった。
だが、脚本上興味深かったのは、ヴィシュヌ神の十化身の特徴がカマル・ハーサンの演じる10役の設定に反映されていたことと、2004年12月26日にインドを襲ったインド洋津波という実際の出来事がストーリーに組み込まれていたことである。十化身と「Dasavathaar」「Dashavtar」の登場人物の対応は以下の通り。
十化身 | 「Dashavtar」 |
---|---|
マツヤ | ランガラージャ・ナンビー |
クールマ | ジョージ・ブッシュ |
ヴァーラハ | クリシュナヴェーニー |
ヴァーマナ | カリフッラー |
ナラスィンハ | ナラハシ・シンゲン |
パラシュラーマ | フレッチャー |
ラーマ | アヴタール・スィン |
バララーマ | バルラーム |
クリシュナ | ヴィンセント |
カルキ | ゴーヴィンド |
この中で、クールマとジョージ・ブッシュ、ヴァーラハとクリシュナヴェーニーはつながりが薄いが、それ以外はある程度明確である。例えば12世紀のシーンでランガラージャ・ナンビーは海に沈められるが、それはマツヤ(魚)と対応する。カリフッラーは巨人であったが、それは悪魔に一泡吹かせるために矮人から一気に巨人になったヴァーマナと対応する。殺し屋のフレッチャーは片っ端から人を殺していくが、その様子はクシャトリヤを殲滅したパラシュラーマと一致する。アヴタール・スィンは癌を患い、喉を撃たれながらも最後で復活した。それはどちらかというとラームの弟のラクシュマンに対応する。ラクシュマンはランカー島の戦いで重傷を負うが、ハヌマーンの活躍により一命を取り留めたのだった。ヴィンセントは肌が黒く、最後は足を鉄棒で串刺しにされて溺死するが、それは肌の色が黒く、アキレス腱を射られて死んだクリシュナと酷似している。カルキは世界の終わりに現れるとされるが、それはこの映画の主人公ゴーヴィンドを彷彿とさせる。また、ナラスィンハはナラハシと、バララームはバルラームと名前が一致している。
タミル語版オリジナル「Dasavathaaram」とヒンディー語吹替版「Dasavtar」の間で大きな違いはなかったが、唯一バルラームの設定だけ異なった。タミル語版ではバルラームはテルグ人であるが、ヒンディー語版では彼はベンガル人ということになっていた。バルラームのキャラクターには、訛ったしゃべり方をおちょくるようなところがあった。タミル語版ではテルグ人の話すタミル語をおちょくったが、ヒンディー語吹替版ではそのままテルグ人にしてもしっくり来ないため、バルラームの設定をベンガル人に変更し、ベンガル人の話すヒンディー語をおちょくろうとしたのであろう。
カマル・ハーサン演じるジョージ・ブッシュも気になるが、日本人にとって一番気になるのは何と言っても日本人ナラハシ・シンゲンである。武術の達人で、妹の仇討ちにインドにやって来るという設定は非常に格好いいし、クライマックスで悪役のフレッチャーと格闘するのもシンゲンで、かなりおいしいキャラクターだ。しかも、シンゲンは日本語の台詞をしゃべる。インド映画にしてはなかなか本格的な日本語だ。日本語の台詞のところでは字幕が出る。クライマックスで米国人のフレッチャーに「広島を覚えているか?」と聞かれ、シンゲンが「真珠湾を覚えているか?」と問い返すところもニヤリとさせられる。これは、「Muthu」の日本での大ヒットで気をよくしたKSラヴィクマール監督の、日本へのオマージュなのであろうか?
また、クリシュナヴェーニーとヴィンセントについて一言触れておくべきであろう。クリシュナヴェーニーはブラーフマンの家系に生まれ育った老婆で、ヴィンセントはダリト(不可触民)である。通常ならこの二人が互いに関わり合うことはない。だが、クリシュナヴェーニーは息子の死を受け入れられずにいるという設定で、最後に津波が発生し、ヴィンセントの遺体が海岸に打ち上げられると、クリシュナヴェーニーはそれを息子だと勘違いし、嘆き悲しむ。それによって彼女は「息子は死んだ」という現実に直面し、正気を取り戻すのだが、それは津波によってカースト間の壁が取り除かれたことを示しているのかもしれない。
よって、実は「Dasavathaaram/Dashavtar」は、3時間という「インド映画サイズ」の大長編映画ながら、その中に3時間では収まりきらないほど多くの要素が詰め込まれた映画である。このような難しい脚本と難しい演出・演技を要する野心作に挑戦したKSラヴィクマール監督とカマル・ハーサンは賞賛に値する。だが、あまりに展開が急速かつごちゃごちゃし過ぎていて、見るのに疲れる映画だった。アクションやスリルは一級だったが、緩急の「緩」の部分が欠けており、ゆっくり見ていられなかった。娯楽映画なので、少しぐらいは先の展開を予想する心の余裕を持ちながら鑑賞したいのだが、そういうことを許してもらえず、次々とストーリーが進行して行き、それに追い付くだけで精一杯だった。
カマル・ハーサンは今回10役を一人で演じた。全く別人にしか見えないような顔に変貌させてしまうメイク技術には驚かされたし、映画の最後に映されるメイクの「メイキング」シーンも面白かったが、メイクをしているのが分からないほど自然なメイクというレベルには達しておらず、変な顔のキャラが登場したらいちいち「これもカマル・ハーサンなのだな」と分かってちょっと興醒めであった。特にジョージ・ブッシュ、クリシュナヴェーニー、カリフッラー、ナラハシ・シンゲン、フレッチャー、ヴィンセントのメイクが変だった。つまり10役の内6役は不自然だった。果たしてカマル・ハーサンは1人で10役を無理に演じる必要があったのだろうか、そういう根本的問いを投げかけずにはいられない。それでも、こういうユニークな挑戦はどんどんして行ってもらいたい。
ヒロインは「Ghajini」(2008年)でヒンディー語映画デビューしたアシン。「Ghajini」のアシンはフレッシュで良かったのだが、「Dasavathaaram/Dashavtar」は甲高い声でマシンガントークをしてドタバタするうるさい女であり、げんなりであった。ヒンディー語映画女優のマッリカー・シェーラーワトがサブヒロイン(正確には悪役)として登場するが、これが彼女のタミル語映画デビューとなる。登場機会は前半のみであったが、彼女が演じたのは、アイテムナンバーでのダンスを含め、自分のもっとも得意とする役柄であり、アシンよりも好感が持てた。他に、往年の女優ジャヤプラダーが端役で登場する。
音楽は主にヒンディー語映画界で活躍する音楽家ヒメーシュ・レーシャミヤー。しかし、「Dasavathaaram/Dashavtar」において彼の持ち味は全く活かされておらず、挿入歌の中に魅力的なものはほとんど見出されなかった。南インド映画にしては、ダンスシーンに気合いが入っていない部類に入る映画だと言えるだろう。ストーリーが急展開過ぎるので、ダンスシーンを適度に織り込んで緩急を付けることもできただろうが、時間不足のためか、端折り気味のダンスシーンばかりであった。特筆すべきは、エンディングで流れる曲(タミル語版では「Ulaga Nayagan」)でKSラヴィクマール監督自身が登場してダンスを披露することである。
タミル語映画では、やたらとタミル語に対する愛が語られる。それは時に、登場人物が、非タミル人も含め、皆タミル語を理解し、タミル語を話す言い訳にもなっている。ヒンディー語吹替版では当然流れからそれはヒンディー語に対する愛に置き換えられるのだが、ヒンディー語映画では通常そういう台詞は出て来ないため、非常に違和感を感じる。タミル語版も同時制作された「Guru」(2007年)でもそれを感じたのだが、この「Dasavtar」でもヒンディー語、ヒンディー語とうるさかった。この点は、吹替版の弱点だと言える。
最近、上映時間が短めで薄口の映画がヒンディー語映画界では多くなって来ているのだが、「Dasavtar」はコテコテのインド娯楽映画路線を行っており、久々にマサーラーを腹一杯詰め込んだ気分である。皿からはみ出るほどの大盛りで、必ずしも見た目は美しくなかったが、とにかく3時間観客を存分に楽しませようという気概に満ちあふれており、その旺盛なサービス精神は買いたい。ヒンディー語という自分が得意とする言語で鑑賞できたのも嬉しかった。願わくは、このような南インド映画の典型的娯楽映画のヒンディー語吹替版公開が少しずつ増えてくれればありがたい。