殺人や詐欺などの犯罪を巡るクライム映画はインドでもよく作られている。何か事件があったときにまず動き始めるのは警察官であるのも万国共通だ。しかしながら、インドの刑事手続きには独特の用語がある上に、字幕にそれらをいちいち説明する余裕がないことがほとんどだ。たとえインドに住んだり、インドを旅行したりしたことがある外国人でも、警察にお世話になる機会が頻繁にあるわけでもなく、それらの用語を、実体験をもって受け止めることは難しいかもしれない。ここではそのような用語を解説したい。
まず、何らかの事件が起こると市民は警察署を訪れる。警察署は英語で「Police Station」というが、ヒンディー語の「थाना」からの「Thana」や、「कोतवाली」からの「Kotwali」という単語もよく使われる。また、インドにおいて警察の緊急電話番号は「100」である。
ところで、日本人は警察署や交番に対してどんなイメージを持っているだろうか。街角に点在する交番ならば、道に迷ったり、落し物を拾ったときに訪ねるところぐらいの牧歌的なイメージに留まるのではなかろうか。警察署となると少し緊張するが、それでも後ろめたいことがなければそんなに気負いすることなく入ることができる。しかし、インドは真逆だ。一般市民にとって警察署は恐ろしい場所というイメージであり、できることならば立ち寄りたくないと思っている。インドの警察官は市民から慕われているわけではなく、むしろ恐れられている存在なのである。
また、インド人は「警官が家を訪れる」という出来事を非常に不名誉だとも考えている。日本人ならば、警察官の家庭訪問は日常的な出来事ではないものの、何の後ろめたいこともなければ、パトロールか捜査の一環だろうと思うことだろう。だが、インドでは、どんな理由であれ、警官に家に入られるだけで家名が汚されたと感じる。田舎の村になると、警官が村に入ってくること自体が一大事と捉えられる。それほど警官はインド人から嫌がられている存在なのだ。そんな警察官が詰めている警察署を自ら訪ねるには相当な勇気を振り絞らなければならない。特に女性は、決して一人で警察署に行ってはいけないと厳命されている。
ちなみに、インドの警察署には、警察官のデスクが置かれたオフィスの他に、逮捕した容疑者を一時的に拘留する部屋、容疑者を尋問または拷問する部屋、警察官が寝泊まりする宿直室などがある。インド映画を観ていると警察署はよく出て来るので、自然にその構造に詳しくなれる。
インドの警察官の職位や階級は非常に分かりにくいのだが、それについては別のページにまとめてある。
さて、なるべく避けて通りたい警察署だが、何か事件があった場合には勇気を出して足を踏み入れなければならない。日本では被害届を出すことになるが、インドではそれは「FIR」と呼ばれる。「First Information Report」の略で、日本語では「初動報告書」とか「初動調査書」などと訳されているのを見たことがあるが、「被害届」と訳しても問題ないだろう。
FIRは基本的に警察官が作成する書類である。インドの警察官は、何らかの犯罪の被害に遭った当事者または事件の目撃者などから聴き取りをして、その時点で判明している情報をFIRにまとめる。日本の警察署でも、「被害届」と被害者主体の名称になっているものの、多くの場合は警察官が被害者などの聴き取りをしながら決められた様式に記入する形で作成していくことになるので、実態は同じである。
FIRが登録されることで警察官は初めて捜査を開始できる。警察官は、特定の条件下ならば、裁判所からの令状(Warrant)がなくても容疑者を逮捕(Arrest)できる。令状なしの逮捕のための要件はそんなに厳しくない。ただし、男性警官は女性容疑者を逮捕できないことになっている上に、女性容疑者を日の出前もしくは日没後に逮捕しようとするときは裁判官からの許可が必要とされている。
警察官が容疑者を特定し、逮捕すると、「警察拘留(Police Custody/PC)」の状態になる。容疑者は警察署の拘留部屋に拘留されるが、拘留時間は24時間以内と決められている。それ以上の拘留をする必要がある場合、24時間以内に警察官は容疑者の尋問や事件の捜査を行い、証拠を集めなければならない。
警察拘留の期間で十分な証拠が入手できた場合、容疑者は裁判所に連行される。裁判官は警察官が提出した証拠を元に、その後の容疑者の処遇を決定するのだが、それには主に3つの選択肢がある。保釈(Bail)するか、警察拘留に戻すか、それとも「司法拘留(Judicial Custody/JC)」とするかである。
裁判所での手続きを経ることで、警察は容疑者を逮捕から数えて最大15日間、警察拘留することができる。司法拘留になった場合、拘留期間は最大90日だが、容疑者の身柄は裁判所の保護下に置かれるため、尋問などはしにくくなる。警察拘留は警察署の拘留部屋で引き続き拘留になるが、司法拘留の場合は刑務所に送られる。インドの刑務所には、まだ判決が確定していない未決拘留者(Under Trial)と、判決が確定し懲役刑もしくは死刑を宣告された受刑者(Convict)が一緒に収容されている。未決拘留者に労働の義務はないが、懲役刑受刑者には労働の義務が発生する。また、未決拘留者は私服だが、受刑者は支給された制服を着用しなければならない。
なお、子持ちの女性は、子供が6歳未満の場合に限り、子供と一緒に服役することができる。インドならではの配慮である。
インドでは、懲役刑が決まっても、受刑者が刑務所の外を出歩いていることがある。これは「Parole」という制度で、「仮釈放」と訳すことができる。仮釈放には大きく分けて2種類がある。ひとつは緊急の仮釈放で、もうひとつは通常の仮釈放である。
基本的に仮釈放は、受刑者の更生と社会復帰を促進するためのもので、刑務所で模範的な行動をしている受刑者に対し、14日間の自由が与えられる。これが通常の仮釈放であるが、例えば身内の結婚式や葬儀に出席する必要が出た場合に、緊急で仮釈放が認められることもある。
ただし、権力者がこの仮釈放の制度を悪用しており、懲役刑になっているにもかかわらず、あれこれ理由を付けて頻繁に娑婆を闊歩するようなことも起こっている。仮病や偽の診断書を使って、刑務所を出て病院に滞在することも可能だ。もちろん、権力さえあれば、塀の中にいても特権を行使することができる。莫大な財力や強力なコネのある囚人は、空調付き、ダブルベッドの個室で、携帯電話やインターネットを自由に利用し、高級レストランから食事を取り寄せ、悠々自適の刑務所ライフを送っている。
刑事手続きを知るのに最適な映画
インド映画に警察署や刑務所はよく出て来るのだが、逮捕から始まり、警察拘留を経て司法拘留となる流れを丁寧に追った作品となると意外と少ない。その中でもマドゥル・バンダールカル監督の「Jail」(2009年)は比較的忠実に刑事手続きを追った作品であり、勉強になる。
有名な刑務所
ヒンディー語映画によく登場する刑務所はいくつかある。まず、ヒンディー語映画の本拠地ムンバイーを代表する刑務所といえば、アーサー・ロード刑務所(Arthur Road Jail)である。英領時代の1926年に設立された、ムンバイーでもっとも古い刑務所であり、規模も最大である。正式名称はムンバイー中央刑務所(Mumbai Central Prison)だが、英領時代からの呼び名が今でも通用している。26/11事件で唯一生け捕りにされたテロリスト、アジマル・カサーブもこの刑務所に入れられた。
インド全土でもっとも有名な刑務所は、デリーにあるティハール刑務所(Tihar Jail)である。南アジア最大の刑務所にして、警備がもっとも厳重な刑務所としても知られており、国家的な犯罪者が収容されることが多い。しかしながら、更正施設としても有名で、施設内には工場もあり、ティハール刑務所の囚人たちによって作られた「TJ」ブランドの製品は人気である。「Shahid」(2013年)にはティハール刑務所が実名で登場した。
他に、マハーラーシュトラ州プネーにあるヤルワダー中央刑務所(Yerwada Central Jail)もよく知られている。1871年に英国人によって建設され、マハートマー・ガーンディーやジャワーハルラール・ネルーなど、独立運動時代に政治犯として逮捕された人々が収容されていたため、その種の映画で登場することがある。
また、アンダマン&ニコバル諸島にあるセルラー刑務所(Cellular Jail)も、流刑になった政治犯が収容されていたことで知られる。「Swatantrya Veer Savarkar」(2024年)は、英領時代にセルラー刑務所に収監されたヴィール・サーヴァルカルの伝記映画だが、実際にセルラー刑務所でロケが行われた。