「ニルバヤー」とは「恐れ知らずの女性」という意味だが、この名前は2012年12月にデリーで起こったデリー集団強姦事件を経て、この事件の被害者と永遠にイコールで結び付いている。被害者の本名はジョーティ・スィンといったが、事件発生当初、本名は伏せられており、メディアが便宜上の仮名として彼女を様々な呼称で呼んだ。その中でもっとも市民権を得たのが「ニルバヤー」であり、この事件は一般に「ニルバヤー事件」と呼ばれている。
アンモール・マリク監督が撮った初の長編映画「Nirbhaya」は、2018年12月1日にYouTubeで公開されたネット映画だ。その題名からニルバヤー事件を扱った映画を想起するが、ニルバヤー事件とは直接関係がない。ただし、強姦を取り上げた映画であり、間接的には関係がある。自主製作映画の域を出ず、出演している俳優たちも無名の人々ばかりだ。アンチャル・クマーリー、プージャー・ラーワト、ジティン、モーヌー・シャルマー、ニールー・マリクなどである。
舞台はデリー。ニルバヤー(アンチャル・クマーリー)は二人組の男たち(ジティンとモーヌー・シャルマー)に強姦され、ボロボロの状態で家に戻る。彼女は両親を亡くしており、叔母さん(ニールー・マリク)と一緒に住んでいた。叔母さんは仕事で忙しく家には誰もいなかった。ニルバヤーはシャワーを浴び、これからどうするか考えている内に寝てしまう。 翌朝目を覚ますと、既に叔母さんは仕事に出ていた。ニルバヤーは自殺を考えるが、そのとき、やはり強姦に遭って自殺した親友ムクティ(プージャー・ラーワト)が現れ、彼女に「死ぬべきは強姦魔だ」と言い聞かす。ニルバヤーは勇気を持って外に出て、自分を強姦した男たちを探す。そして彼らを殺す。
45分ほどの短い映画ではあるが、その中でレイプのシーンが5分以上ある。YouTubeにアップするためなのか、年齢制限が掛けられている上にレイプのシーンには大きくモザイクが掛けられており、ほとんど何が起こっているか分からない。しかし、主人公ニルバヤーの悲痛な叫び声や強姦魔たちの卑猥な言葉などは入っており、まるで強姦モノのアダルトビデオのようだ。そしてニルバヤーが強姦されたことを観客に分からせるために5分ものレイプシーンは必要ない。もちろん、「Nirbhaya」は強姦を支持する映画ではないが、まるで強姦のシーンを楽しんで撮っているかのような印象も受けた。まず、その点が非常に気になった映画である。
次に、強姦された被害者の心理に焦点が当てられる。強姦を受けた女性がいかに心理的な傷を受け、その後の人生を普通に送ることができなくなるのかを赤裸々に描き出した作品かと予想したが、そうではないことがすぐに分かる。突然、親友ムクティの幽霊が現れるのだが、彼女も強姦の被害に遭い、自殺したことが明かされる。そして、自分の後を追うのではなく、「死ぬべきは強姦魔だ」とニルバヤーを焚き付ける。
ニルバヤーは、そのままムクティの助言を聞き入れる。強姦をされた後、まずは家族や警察に相談すべきなのだが、そういうステップを踏んでいない。また、妊娠の心配があるため、アフターピルの服用も必要なはずだが、それもしていない。ただ、強姦魔を探し出して彼らを殺す。
確かにインド人の中にはレイプ犯に対する怒りが渦巻いており、レイプ犯の全員死刑を求める声も強い。だが、犯人を法律に則って裁かなければ、法治国家としてのインドは崩壊してしまう。しかも、「Nirbhaya」はレイプ被害者が自らレイプ犯に私刑を行うことを推奨していると捉えられる。あまりに軽率な映画だと言わざるを得ない。
実はレイプ犯に対して私刑を行う筋書きの映画は、事件以来複数作られている。「Jazbaa」(2015年)、「Maatr」(2017年)、「Mom」(2017年)などである。だが、これらはじっくり時間を掛けて復讐までの道筋を描いているので、レイプ犯に対する怒りを物語に昇華させたフィクションとして捉えることが可能である。それに対して「Nirbhaya」は長編映画の中では短い部類で、しかも映像やストーリーが直接的なので、監督のメッセージは直球で観客に届いてしまいがちだ。そういう映画において、極端な主張を短絡的にされると、どうしても弱点に映ってしまう。
「Nirbhaya」は、デリー集団強姦事件から生まれた映画の一本だ。事件そのものを扱った映画ではないが、レイプの被害に遭った女性がレイプ犯を自ら殺すことを推奨するメッセージを発信する問題作である。低予算の自主製作映画であり、有名な俳優の起用もなく、単にメッセージを伝えたいがために作られたような映画だが、なぜかレイプシーンが必要以上に長く入っていたりして、ちぐはぐな印象は免れない。観る価値のない映画である。