ヒンディー語映画音楽の歌詞は基本的に韻文であり、韻文を吟味する上で脚韻の鑑賞は外せない。字幕にしてしまうと普通は脚韻のエッセンスが抜け落ちてしまうものだが、耳で映画音楽の歌詞を楽しめるようになると、脚韻を吟味できるようになる。
ヒンディー語映画音楽の歌詞では、各行もしくは特定の行の最後の単語を似た音の言葉にすることで韻を踏むのが一般的である。
例えば、以下の歌詞では、1、2、4行目の最後の単語が「-ar」で共通しており、脚韻が踏まれているのが分かる。「Ek Villain」(2014年)の「Banjaara」という曲である。
जैसे बारिश कर दे तर
या मरहम दर्द पर
कोई मुझको यूँ मिला है
जैसे बंजारे को घर
नए मौसम की सहर
या सर्द में दोपहर
कोई मुझको यूँ मिला है
जैसे बंजारे को घर
Jaise Baarish Kar De Tar
Ya Marham Dard Par
Koi Mujhko Yun Mila Hai
Jaise Banjare Ko Ghar
Naye Mausam Ki Sahar
Ya Sard Mein Dopahar
Koi Mujhko Yun Mila Hai
Jaise Banjare Ko Ghar
雨が地面を濡らすように
薬が痛みを癒やすように
僕にも誰かが見つかった
まるで遊牧民が家を見つけたように
新しい季節の朝のように
冬の季節の昼間のように
僕にも誰かが見つかった
まるで遊牧民が家を見つけたように
ヒンディー語映画音楽の歌詞では、普通では有り得ないようなラディカルな脚韻が行われていることもある。特に多いのが英単語と現地語の脚韻である。例えば、「Om Shanti Om」(2007年/邦題:恋する輪廻 オーム・シャンティ・オーム)の「Dard E Disco」では、「誰を」「誰に」という意味のヒンディー語代名詞「किसको」と、「ディスコ」という意味の英単語「Disco」で脚韻が踏まれている。
मैं बेचारा हूँ आवारा
बोलो समझाऊँ मैं यह अब किस किसको
दिल में मेरे हैं दर्द-ए-डिस्को
Main Bechara Hoon Awara
Bolo Samjhaun Main Yeh Ab Kis Kisko
Dil Mein Mere Hain Dard-e-Disco
僕は憐れな放浪者ということを
今、一体誰に知らせればいいのか、教えてくれ
僕の心にはディスコの痛みがある
英単語とヒンディー語単語の脚韻の例をもうひとつ挙げると、「Sonu Ke Titu Ki Sweety」(2018年)の「Chhote Chhote Peg」がある。ヒンディー語の関係代名詞「जिसकी」と、英単語の「Whiskey(ウィスキー)」「Risky(危険な)」で脚韻が踏まれている。
पिला दे दीवानी मैं हूँ जिसकी
I am a bad girl, I like whiskey
जब मुझको चढ़ जाती तो
नशे में हो जाती मैं riskey
Pila De Diwani Main Hoon Jiski
I am a bad girl, I like whiskey
Jab Mujhko Chhadh Jaati Toh
Nashe Mein Ho Jaati Main Riskey
飲ませて、私の愛しい人
私は悪い女の子、ウィスキーが好きなの
私が酔っ払うと
危険な女になっちゃうの
こういう、言語の可能性を拡大するような言葉遊びが楽しめるのも、ヒンディー語映画音楽の歌詞の面白いところである。こういう目の覚めるような脚韻に出会うと、ついウキウキしてしまうものだ。
ラディーフ・カーフィヤー
上で説明した単純な脚韻の他に、ヒンディー語映画音楽の歌詞で多用される脚韻の手法に、ラディーフ・カーフィヤーがある。
ラディーフ・カーフィヤーは元々ペルシア語韻文学の用語で、特に「ガザル」と呼ばれる、二行を一連とし、普通は複数の連で構成される韻詩の形式に使われている。ガザル形式の詩はペルシア語のままインドに伝わって教養層の間で愛されただけでなく、インド諸語でもガザル詩が作られるようになり、それがヒンディー語映画音楽にまで影響を与えている。インド人にもっとも人気のある詩形といっても過言ではない。
ラディーフは行の末尾に来て、全く同じ単語が繰り返される一方、カーフィヤーはラディーフの直前に来て、似た音の単語になる。実際に例を見た方が分かりやすいだろう。
「Bunty Aur Babli」(2005年)の「Kajra Re」の冒頭の一節は以下のようになっている。
ऐसी नज़र से देखा उस ज़ालिम ने चौक पर
हमने कलेजा रख दिया चाकू की नौक पर
Aisi Nazar Se Dekha Us Zaalim Ne Chauk Par
Hamne Kaleja Rakh Diya Chaku Ki Nauk Par
こんな目をして、あの冷たい人が市場で私を見た
私はナイフの先っぽに心を置いた
2行の詩だが、青字で示した「पर」は全く同じ単語である。それに対し、その直前の赤字で示した「चौक」と「नौक」は音の似た異なる単語である。専門用語では、青字がラディーフ、赤字がカーフィヤーになる。ヒンディー語映画音楽には、この形式の脚韻を踏む歌曲も少なくない。
ラディーフは1単語に限定されず、数単語に及ぶこともある。最も長いラディーフとしてよく引き合いに出されるのが、19世紀のウルドゥー語詩人モーミン・カーン・モーミンのガザル詩のラディーフ「तुम्हें याद हो कि न याद हो(あなたは覚えていますか、いませんか)」だ。古いヒンディー語映画「Shikayat」(1948年)でもこのガザル詩が音楽に乗せて歌われたことがあるので、例として挙げておく。
वह जो हममें तुममें क़रार था तुम्हें याद हो कि न याद हो
वही यानी वादा निबाह का तुम्हें याद हो कि न याद हो
वह नए गिले वह शिकायतें वह मज़े मज़े की हिकायतें
वह हर एक बात पे रूठना तुम्हें याद हो कि न याद हो
Voh Jo Hummein Tummein Qarar Tha Tumhein Yaad Ho Ki Na Yaad Ho
Wahi Yani Vaada Nibaah Ka Tumhein Yaad Ho Ki Na Yaad Ho
Voh Naye Gile Voh Shikayatein Voh Maze Maze Ki Hikayatein
Voh Har Ek Baat Pe Roothna Tumhein Yaad Ho Ki Na Yaad Ho
あなたと私の間には約束があった、あなたは覚えていますか、いませんか
あの約束を守るという誓いがあった、あなたは覚えていますか、いませんか
新しい恨みつらみや不平不満、心躍るような楽しい語り合い
言葉の端々に腹を立てる姿、あなたは覚えていますか、いませんか
青字で示されている「तुम्हें याद हो कि न याद हो(あなたは覚えていますか、いませんか)」という7語の長いフレーズがラディーフとして繰り返されている。その直前には、赤字で示されている「-a」という共通の音を持つ単語が並んでおり、これらがカーフィヤーになっている。
何行にも渡る詩の場合、韻が踏まれるのは、第1行を除けば、基本的に偶数行となる。つまり、第1行、第2行、第4行、第6行、第8行・・・となる。言い方を変えれば、第1連では両行で韻を踏み、第2連以降は後半の行ごとに韻を踏む。第1連で詩の世界観を決定する韻律上のルールを提示し、その後の連で、そのルールの範囲内で可能な限り詩を続けていく。また、最後の連には詩人のペンネーム(タカッルス)が入る決まりになっている。
ラディーフ・カーフィヤー型の脚韻の場合、必ず共通して繰り返されるラディーフがあるため、それを手掛かりにして、次の行でどんな脚韻が踏まれるのか前もって予想できることがある。だから、インドの詩会では、詩人と聴衆の間でバトルが繰り広げられる。詩人がガザル詩を詠み出し、ラディーフ・カーフィヤーが提示されると、詩心のある聴衆は、その組み合わせから考えられるその後の展開に想いを巡らす。意地の悪い聴衆は、詩人が口にする前に先走って口走ってしまう。詩人は、聴衆が思いもしなかった形でラディーフ・カーフィヤーを使わなくてはならない。
また、ガザル詩に特有なのは、各連同士が一貫したテーマでなくてもいい点である。共通するラディーフ・カーフィヤーを使って、どれだけ四方八方に世界を広げていけるかが、詩人の腕の見せ所になる。
詩の大国インド
こういう豊かな詩会文化がヒンディー語映画音楽の下地になっており、しかも分業制を採るヒンディー語映画界において歌詞を書いているのはほとんどがプロの詩人たちである。そのため、どの歌曲でも脚韻には相当な力が入っている。ナンセンスな歌詞の曲は特に脚韻で大いに遊んでいるし、高度に文学的な情緒を持つ詩でも脚韻は当然のように非常に重視される。最近流行のラップ調の歌曲でも脚韻は命だ。つまり、脚韻だけはどんなジャンルの詩でも外せない要素になっている。
詩というと教養層の嗜みというイメージもあるが、インド人は文字が読めない人でも驚くほど詩を理解し、自らも詩作をする。インド人はおそらく世界でもっとも詩の好きな民族である。そういう国で作られる映画で、挿入歌の歌詞に並々ならぬ力が込められているのは、当然のことといえるかもしれない。そして、その際にもっとも重点が置かれる要素のひとつが脚韻なのである。