今日はPVRアヌパム4で、2006年5月5日公開の新作ヒンディー語映画「Tathastu」を観た。「Tathastu」とは「それでよい」という意味。監督はアヌバヴ・スィナー、音楽はヴィシャール=シェーカル。キャストは、サンジャイ・ダット、アミーシャー・パテール、ジャヤープラダー、グルシャン・グローヴァー、ヤシュ・パータクなど。
二輪車工場に勤める一般人ラヴィ(サンジャイ・ダット)は、妻サリター(アミーシャー・パテール)、一人息子ガウラヴ(ヤシュ・パータク)と共に幸せに暮らしていた。ところがある日、ガウラヴはクリケットの試合中に倒れてしまう。ラヴィは息子を高級病院へ連れて行く。ところが、診察料は3万ルピーもかかった。何とかお金をかき集めたラヴィだったが、追い討ちをかけるように息子の心臓移植手術のために150万ルピーが必要であることを知らされる。 ラヴィはまずは150万ルピーを調達するために保険会社や勤務先などを当たるが、システムはラヴィのような貧乏人に優しくできておらず、思うように金が集まらなかった。医者も、150万ルピーが支払われない限り手術は始められないと言い張る。追い詰められたラヴィは、銃を買って病院の受付を占拠し、その場にいた30人を人質にとる。病院はすぐに警察に取り囲まれる。ラヴィと警察の間では断続的に交渉が続けられる。 最初はラヴィを怖がる人質たちであったが、息子の命を救うための行動だと分かると、彼を応援するようになる。また、会社の同僚たちも現場に駆けつけてラヴィを援護する。 ところで、実は同病院には政府与党の党首スワーミージーが入院していた。党首も心臓を患っており、心臓移植が必要であった。そのときすぐに入手可な心臓はひとつのみ。入院した順番がガウラヴの方が先であったため、もしお金が支払われればガウラヴの方にその心臓の優先権があった。だが、ラヴィは期限までにお金を支払うことができなかった上に、政治家たちの圧力があり、スワーミージーの手術が優先されることになった。 それを知ったラヴィは、遂に観念して人質を解放し、警察の前に出て来る。だが、ラヴィはそのまま引き下がる男ではなかった。公衆の面前で自殺し、自分の心臓をガウラヴに渡そうとした。そのとき、群集の中からスワーミージーの部下の政治家が現れる。そして、スワーミージーはガウラヴに心臓を譲ること、そして手術代を党が肩代わりすることを発表する。実は既にスワーミージーは他界していたのだが、これは群衆の支持を得るために行ったパフォーマンスであった。だが、そのおかげでガウラヴの手術が行われることになり、ガウラヴはまた元気にクリケットで遊べるようになった。
所々いい映画っぽい要素が見受けられるのだが、全体的に細かい欠陥が目立ち、結局駄作の烙印を押さざるをえない。
息子の手術の費用が工面できずに病院を占拠するという「Tathastu」のストーリーは、どうやら実話をもとにしているようなのだが、脚本や展開が稚拙であるために現実感がなかった。ラヴィが占拠した病院の構造がいまいち分かりにくいし、ラヴィと人質たちの間のやり取りは説得力を欠いた。病院を包囲した警察の行動も適切ではないし、最後に政党がガウラヴの手術代を肩代わりするのも根本的な解決になっていなかった。着想が悪くなかっただけに、これらの詰めの甘さが惜しまれるところである。
この映画の表のテーマは父と子の間の愛情であろうが、裏のテーマは間違いなく社会のシステム批判である。特に強調されていたのは、庶民の生活レベルとかけ離れた高級病院の内情。初診料として3万ルピーも要求され、手術代として150万ルピーも支払わなければならないというのは、果たして現実的な数字が分からないが、月給5千ルピーのラヴィを初めとした一般庶民にとって、大都市にある高級病院が法外な診察料を取っていることは確かであろう。そして、挙句の果てには「貧乏人はこんな病院に来るな。政府系病院へ行け」と言われる始末。だが、息子のこと愛してやまないラヴィにとって、自分の収入の限界を超えていたとしても最高の病院に息子を入院させたいというのは、当然の願望であろう。インド映画では一般的に、登場人物が怪我をすると当然のようにきれいな高級病院に運ばれるが、「Tathastu」は庶民が高級病院に行ったらどうなるかを取り上げており、その点で監督のメッセージは伝わってきた。
この映画の最大の見所はサンジャイ・ダットのシリアスな演技であろう。マフィアのドンをやらせると右に出る者はいないサンジャイ・ダットだが、意外に彼は芸幅の広い役者である。「Munna Bhai M.B.B.S.」(2003年)のようなコメディーもできるし、「Parineeta」(2005年)のような時代劇もできるし、今回のようなシリアスな演技もできる。しかし図体がでかく、風格があるので、今回彼が演じたような一般庶民の役は少し無理がある。それに、彼が100ccくらいのバイクに乗っているシーンがあったが、全然似合っていなかった。だが、もっとも優れた演技をしていたのは、間違いなくサンジャイ・ダットであった。
映画最大の戦犯はアミーシャー・パテール。彼女は現在のヒンディー語映画界の俳優の中で、最も人気に釣り合う演技力を持ち合わせていない女優である。女優と呼ぶのも憚られるくらいだ。彼女が泣き喚くシーンが数回登場するのだが、どれもオーバーアクション気味で現実感がない。
女医を演じたジャヤープラダーは「Khakee」(2004年)以来の出演。しかし、彼女のようなベテラン女優に見合う役ではなかった。
音楽はヴィシャール=シェーカルだが、映画中ほとんどダンスシーンはなし。唯一、カッワーリーナンバーが挿入されていたが、ない方がマシというぐらいのつまらない曲と踊りであった。
「Tathastu」は、社会に向けたメッセージをひしひしと感じさせてくれるものの、現実感のない展開なので、あまり感情移入はすることができないだろう。