ネットストリーミングの時代になり、既にCDが売れる時代ではなくなっているが、少なくとも2000年代までは音楽を「買う」際にはCDがもっとも一般的な媒体だった。かつてはインド映画のサントラも主にCDで売られていた。他国に比べたらカセットテープも長く生き残っており、2000年代半ばくらいまで普通に店頭に並んでいたものだが、これはトラック運転手やタクシー運転手などに需要があったからだと聞いたことがある。カセットの前には映画音楽はLPレコードで売られていた。
さて、世界でもっとも売れたアルバムはマイケル・ジャクソンの「スリラー」(1982年)だという。販売枚数には諸説があるのだが、2012年にギネスブックが7,000万枚の販売達成を認定している。アルバムの中には「スリラー」をはじめ、「今夜はビート・イット」、「ビリー・ジーン」など、マイケル・ジャクソンの初期の名曲が収められており、ストーリー性のあるミュージックビデオも話題になった。インド映画のダンススタイルにも大きな影響を与えた偉大な作品である。ちなみに、テルグ語映画「Donga」(1985年)には「スリラー」のMVをコピーしたダンスシーン「Golimaar」があり、一部でカルト的な人気がある。踊っているのはメガスター、チランジーヴィーである。
では、世界で2番目に売れたアルバムは何かというと、これもまた諸説がある。AC/DCの「バック・イン・ブラック」(1980年)、イーグルスの「イーグルス・グレイテスト・ヒッツ 1971-75」(1976年)、ホイットニー・ヒューストンなどの「ボディガード」(1992年)サントラ、ミートローフの「地獄のロック・ライダー」(1977年)、ピンク・フロイドの「狂気」(1973年)などの名が挙がる。だが、それらの販売枚数はせいぜい4,000万枚から5,000万枚であり、7,000万枚以上を売ったとされるアルバム「スリラー」からは大きく引き離されているというのが共通認識である。
ところが、世界第2位の売上実績を主張するアルバムが実はインドにある。それは、シンガーソングライター、ヒメーシュ・レーシャミヤーのファーストソロアルバム「Aap Kaa Surroor」である。ヒメーシュが主演の同名の映画とそのサウンドドラックがあるが、それとは別で、ソロアルバムの方の「Aap Kaa Surroor」である。2006年に発売されたこのアルバムはなんと5,500万枚を売り上げた。現在までインドでもっとも売れた音楽アルバムとして記録されている。
ヒメーシュ・レーシャミヤーは1973年7月23日、ボンベイ生まれ。サルマーン・カーン主演の「Pyaar Kiya To Darna Kya」(1998年)で音楽監督としての道を歩み始め、同じくサルマーン・カーン主演の「Tere Naam」(2003年)でブレイクした。その後、「Aitraaz」(2004年)、「Aashiq Banaya Aapne」(2005年)、「Aksar」(2006年)などの音楽を担当し、ヒット曲を連発する。一時期はTVを付けてもラジオを付けても必ずヒメーシュの鼻に掛かった歌声が聞こえてくるほどだった。帽子に髭という特徴的なファッションも話題を呼んだ。
また、ヒンディー語映画「Aap Kaa Surroor」(2006年)では主演を務め、俳優業にも進出した。同じ年にソロアルバム「Aap Kaa Surroor」も発売し、上記のように大ヒットとなって、人気を確固たるものとした。ただ、短い期間に突然人気が沸騰しただけあって、冷めるのも早く、いつの間にか露出も少なくなって、2010年頃には既に過去の人になっていた記憶がある。
彼の歌声の特徴は鼻掛かった声で、それが人気の要因のひとつだったと思うのだが、人々からそれを揶揄されることもあり、彼は気にしていたようだ。そして彼は2009年に鼻の手術をした。そうしたら鼻掛かった声ではなくなったものの、特徴のない声になってしまった。彼の人気の凋落は、鼻の手術が原因だったと思われる。まるで芥川龍之介の短編小説「鼻」みたいな話である。
一時期ほどの人気は見る影もないが、ヒメーシュ・レーシャミヤーは今でもヒンディー語映画界で活躍し続けており、「Prem Ratan Dhan Payo」(2015年/邦題:プレーム兄貴、王になる)などの音楽監督を務め、俳優業も細々と続けている。インドでは今でもよく名の知られた人物である。残念ながら世界ではほとんど無視された存在だが、「Aap Kaa Surroor」の販売枚数が本当に5,500万枚あったら、実はマイケル・ジャクソンに次ぐ大ベストセラーのソロアルバムを持つ音楽家ということになる。もちろん、世界第2位(当時)の人口を擁するインドの市場があったからそれだけの数が売れたのであり、他のアーティストとは事情が異なるだろうが、数字は数字だ。もっと積極的にアピールしてもいいのではないだろうか。