2012年のデリー集団強姦事件以来、インドではレイプが喫緊の課題として急浮上し、レイプの厳罰化や裁判の迅速化などの改革が実行された。ヒンディー語映画界も敏感に世間のこの動きを察知し、レイプを映画の題材として取り上げるようになった。
2017年4月21日公開の「Maatr(母)」は、強姦殺人事件と復讐の物語である。監督はアシュタル・サイヤド。ほとんど無名の映画監督である。主演はラヴィーナー・タンダン。1990年代に最盛期だった女優で、2004年の結婚を機に出演作は減ったが、以降も時々スクリーンで顔を見る。他に、「Slumdog Millionaire」(2009年/邦題:スラムドッグ$ミリオネア)のマドゥル・ミッタル、ベテラン俳優のルシャド・ラーナーや、ディヴィヤー・ジャグダレー、アヌラーグ・アローラー、シャイレーンドラ・ゴーエル、アリーシャー・カーンなどが出演している。
舞台はデリー。ヴィディヤー・チャウハーン(ラヴィーナー・タンダン)は高校教師で、勤務する学校には娘のティア(アリーシャー・カーン)も通っていた。ダシャハラーの日、学校では行事があり、二人は帰宅が遅くなった。ヴィディヤーの運転する自動車にティアが乗っていたが、ゴーヴァルダン・マリク州首相の息子アプールヴァ(マドゥル・ミッタル)とその仲間たちが尾行し、彼女たちの乗った自動車を道路脇に突き落とす。そして二人を連れ出して集団強姦し、道に捨てる。 ティアは死んでしまったが、ヴィディヤーは生きていた。事件の担当となったジャヤント・シュロフ警部補(アヌラーグ・アローラー)に対しアプールヴァの名前を出すが、シュロフ警部補は州首相の息子を相手に立件するつもりはなく、無関係の3人を捕まえて犯人に仕立てあげる。また、ヴィディヤーの夫ラヴィ(ルシャド・ラーナー)はヴィディヤーに離婚を願い出る。 親友リトゥの家に身を寄せたヴィディヤーは、警察が動いてくれないのを見て、自分で犯人に復讐することを決意する。まずは事故に見せかけて次々と犯人を殺していく。だが、シュロフ警部補は当初から事故とは見ておらず、すぐにヴィディヤーの仕業であると見抜く。だが、ヴィディヤーの復讐は終わらなかった。集団強姦に関わった6人の内5人が死に、最後にはアプールヴァが残った。 ホーリーの日、ヴィディヤーはマリク家に侵入し、マリク州首相を殺した後、アプールヴァに重傷を負わせる。ヴィディヤーはガス栓を開けており、ライターで火を付けたアプールヴァもろとも爆発する。こうしてヴィディヤーは復讐を果たしたのだった。
デリーが舞台で、政治家の息子とその仲間たちが犯人の集団強姦殺人事件が物語の起点となっている。これと完全に同じ事件は思い付かないが、2012年のデリー集団強姦事件をはじめ、過去にデリーで起きてきた強姦事件や殺人事件を合わせたような事件である。
ヴィディヤーとティアの母子両人が集団強姦され、母だけが生き残ることで、復讐劇が始まる。事件そのものが酷いのだが、映画を観ていてそれと同じくらい気味が悪いのは、夫のラヴィが全くヴィディヤーに寄り添わなかったことだ。しかも、ヴィディヤーに離婚まで切り出す。元々ラヴィとヴィディヤーの仲は冷え切っており、ティアの存在のみが二人を結びつけていたが、娘も既に亡く、二人が一緒に暮らす理由がなくなったとのことだった。だが、こんな事件があったならば、より団結して困難に立ち向かうべきである。ラヴィの行動はよく理解できないものに映る。
夫から見捨てられ、警察にも失望したヴィディヤーは、自分自身の手で犯人に引導を渡すことを決意する。バイクの前輪を緩めて事故を引き起こしたり、薬物によってオーバードーズさせたりと、一介の高校教師の割には手が込んでいる。だが、最後の方は犯人の方が勝手に死んでいくラッキーな展開で、急ぎすぎているように感じた。
レイプ犯には容赦なく厳罰を、極刑を、というインド国民の声を具現化した作品だといえるが、単なる復讐劇で終わってしまっていることは否めず、大した工夫も感じられなかった。主演のラヴィーナー・タンダンは、復讐の権化と化したヴィディヤーを鬼気迫る演技で演じ切っていたし、主犯格アプールヴァを演じたマドゥル・ミッタルもはまり役だった。だが、ほとんどそれだけの映画だった。
事件はダシャハラー祭に始まり、復讐はホーリー祭で完遂した。期間にしたら半年弱である。悪に対する善の勝利を祝うダシャハラー祭で集団強姦事件が起きたのは皮肉としかいいようがないが、ホーリー祭も悪に対する善の勝利を祝う性格の祭りでもある。ホーリーの前日には焚き火を燃やすが、「Maatr」の結末で州首相の邸宅が炎上するシーンがそれに対応していたと考えられる。
「Maatr」は、1990年代に活躍した女優ラヴィーナー・タンダンが主演し、自分と娘を集団強姦し、娘を殺した犯人に一人ずつ私刑を加えていくという復讐劇である。ラヴィーナーや悪役を演じたマドゥル・ミッタルなどの演技は賞賛に値するが、映画そのものの出来は並以下である。無理して観なくてもいいだろう。